それは、ある夏の終わりだった。
茨城の山奥にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む俺は、当時高校生だった。30年ほど前のことだ。夏休みが終わりを迎え、友達と一緒に最後の思い出を作ろうと、夜の山へ肝試しに出かけた。メンバーは俺を含めて4人。幼馴染のタケシ、リーダー格のヨウジ、いつもおどおどしているマサル、そして俺だ。目的地は、集落の外れからさらに山道を登った先にある、古びた神社だった。
その神社は、昔から近づくなと言われていた場所だ。理由は誰も詳しく教えてくれなかったが、年寄りたちは口を揃えて「あそこは穢れている」とだけ言った。朽ちかけた鳥居に蔦が絡まり、境内には雑草が生い茂り、社の屋根は半分崩れ落ちている。昼間でも薄気味悪い雰囲気が漂う場所だったが、夜ともなればなおさらだ。それでも俺たちは、若さゆえの好奇心と無鉄砲さで、懐中電灯を手にその場所へ向かった。
山道を登り始めて30分ほど経った頃、風が急に冷たくなった。夏の夜とは思えないほど肌寒く、木々の間を抜ける風音がまるで人の呻き声のように聞こえた。タケシが冗談っぽく「何かいるんじゃねえの?」と笑ったが、その声は少し震えていた。ヨウジは「ビビるなよ」と強がったが、彼の手も懐中電灯を握り潰すほど力が入っていた。マサルに至っては、ずっと黙ったまま後ろをついてくるだけだった。
やっと神社に辿り着いた時、俺たちの目の前に広がったのは、想像以上に荒れ果てた光景だった。月明かりに照らされた鳥居は、まるで何かを拒むように傾き、社の周囲には不気味な静けさが漂っていた。懐中電灯の光で境内を照らすと、地面に何か黒い染みのようなものが点々と続いているのが見えた。「これ、血じゃねえか?」とタケシが呟いた瞬間、マサルが小さく悲鳴を上げた。よく見ると、それは確かに血のように見えたが、古く乾いたような色合いだった。ヨウジが「動物の血だろ」と言い張ったが、俺の背筋には冷たいものが走った。
それでも俺たちは、肝試しのルール通り、社の中まで入ることにした。崩れかけた扉を押すと、軋む音と共に埃が舞い上がり、鼻を突くカビ臭さが広がった。中は真っ暗で、懐中電灯の光が頼りだった。壁には何か黒いシミが広がっていて、床には割れた木片が散乱していた。中央には小さな祭壇があって、その上に何かが置かれているのが見えた。近づいてみると、それは古い鏡だった。表面は曇り、ひびが入っていて、反射する光が歪んでいた。
「これ、触ってみようぜ」とヨウジが言い出した時、突然、マサルが「やめろ!」と叫んだ。普段おとなしい彼がそんな声を出すなんて初めてだった。驚いて振り向くと、マサルは顔を真っ青にして震えていた。「何か…聞こえる…」と彼が呟いた瞬間、俺の耳にも確かに何かが届いた。低い、掠れた声。言葉にならない呻きのような音が、社の奥から聞こえてくる。最初は風の音かと思ったが、音は徐々に大きくなり、まるで誰かが俺たちを呼んでいるようだった。
慌てて外に出ようとしたその時、懐中電灯の光が一瞬消えた。再び点いた時には、鏡の中に何か映っているのが見えた。俺たちの背後に、黒い影のようなものが立っていた。振り返ってもそこには何もない。だが、鏡の中では確かにそいつが動いていた。長い髪が垂れ下がり、顔は見えない。ただ、じっと俺たちを見つめているような気配がした。タケシが「逃げよう!」と叫び、俺たちは一目散に社を飛び出した。
山道を駆け下りる間、背後から何かが追いかけてくるような感覚が消えなかった。木々の間を抜ける風が、さっきよりも激しく、まるで何かが笑っているように聞こえた。集落に戻った時には、俺たちは全員汗だくで息を切らしていた。マサルは泣きじゃくり、タケシは黙り込み、ヨウジでさえ顔が引きつっていた。俺はただ、胸が締め付けられるような恐怖を感じていた。
それから数日後、奇妙なことが起こり始めた。まず、マサルが学校に来なくなった。家を訪ねると、彼は部屋に閉じこもり、「あいつが見てる」と繰り返すだけだった。次に、タケシが夜道で何かに襲われたと言い出した。背中に爪のような傷ができていて、医者にも原因が分からないと首を振られた。ヨウジは「あの夜のことは忘れろ」と強がっていたが、彼の家の窓ガラスに、誰かが指で引っ掻いたような跡が残るようになった。
そして俺。毎夜、夢の中であの鏡に映る影を見るようになった。最初は遠くに立っているだけだったが、夜を追うごとに近づいてくる。ある晩、目を覚ますと、枕元にその鏡が置かれていた。ひび割れた表面に、俺の顔と共に、黒い影が映り込んでいた。叫び声を上げて鏡を叩き割ったが、次の朝にはまた元通りにそこにあった。
あれから30年。俺はあの集落を離れ、遠くの街で暮らしている。あの鏡は今も俺の手元にある。捨てても燃やしても、次の日には必ず戻ってくる。時折、鏡の奥からあの低い声が聞こえる。俺を呼ぶ声。そして最近、鏡に映る影が、また少し近づいてきた気がする。あの神社は今も山奥に残っているのだろうか。あの夜、俺たちが踏み入れたことで、何かを目覚めさせてしまったのだろうか。
今でも、夏の夜に風が吹くと、あの時の冷たい空気を思い出す。そして、耳元で囁くような声が聞こえる気がして、背筋が凍るのだ。