湿った足跡が響き合い

怪奇現象

新潟の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに暮らす人々は、昔からある言い伝えを守り続けていた。「夜の田んぼに近づくな。湿った足音が聞こえたら、決して振り返るな。」そんな言葉を、子供の頃から耳にしていた俺は、正直それをただの迷信だと笑いものにしていた。都会に出て働いていた時期もあったが、ある事情で実家に戻り、久しぶりにこの集落の静けさに身を置くことになった。

その夜は、じっとりと湿った空気が肌にまとわりつくような日だった。雨は降っていないのに、どこか遠くで水音が響いている気がした。実家の古い家は、軋む床と隙間風が絶えない場所で、夜になると一層その寂しさが際立つ。俺は炬燵に足を突っ込みながら、昔のことをぼんやりと思い出していた。すると、家の外からかすかな音が聞こえてきた。

「チャプ…チャプ…」

最初は風に揺れる木の葉か何かだと思った。でも、その音は一定のリズムを刻みながら、だんだんと近づいてくる。まるで誰かが水の中を歩いているような、そんな湿った足音だった。俺は思わず耳を澄ませた。集落の外れにある田んぼの方から聞こえてくるようだ。時計を見ると、深夜2時を少し回ったところ。こんな時間に誰かが田んぼを歩くはずがない。

「チャプ…チャプ…チャプ…」

音はさらに大きくなり、今度は家のすぐ近くまで来ているように感じた。言い伝えの言葉が頭をよぎる。「決して振り返るな。」だが、好奇心と恐怖が混じり合った感情が俺を突き動かした。俺は立ち上がり、そっと窓の隙間から外を覗いた。月明かりに照らされた田んぼには、何も見えない。ただ、暗闇の中で水面がわずかに揺れているような気がした。

その時だった。足音がピタリと止まった。静寂が耳に痛いほど響き、俺の背筋に冷たいものが走った。そして、次の瞬間。

「チャプッ!」

一際大きな水音が家の裏手から聞こえた。思わず身体が跳ね上がり、振り返りそうになったが、なんとか堪えた。心臓がバクバクと鳴り、汗が額を伝う。もう一度窓の外を見ると、田んぼの端に何か黒い影が立っているのが見えた。人の形をしているようだが、頭が異様に長く、腕がだらりと垂れ下がっている。月明かりに照らされたその姿は、まるで水をかぶったように全身が濡れて光っていた。

「まさか…あれが…?」

言い伝えにあった「湿りもの」の姿が脳裏を掠めた。集落の古老が語っていたのは、田んぼに現れる異形の存在。夜道でそれに遭遇した者は、二度と帰ってこないという。俺は慌てて窓から目を離し、炬燵に潜り込んだ。音が聞こえなくなるまで、ただじっと息を殺して耐えた。

翌朝、恐る恐る外に出てみると、家の裏手に水たまりができていた。雨は降っていないはずなのに、そこだけが不自然に濡れている。そして、その水たまりの周りには、裸足の足跡がぐちゃぐちゃに残されていた。大きさは人間のものと変わらないが、指の間が異様に広く、まるで水かきがあるかのようだった。

それから数日間、毎夜のようにあの足音が聞こえるようになった。最初は遠くからだったが、夜を追うごとに近づいてくる。ある晩、ついに我慢できなくなった俺は、家の戸を固く閉ざし、塩をまいて祈ることにした。古老が教えてくれたおまじないだ。だが、その夜はいつもと様子が違った。足音が家の周りをぐるぐると回り始めたのだ。

「チャプ…チャプ…チャプ…」

まるで俺を閉じ込めるように、音が途切れることなく続く。窓の外を見ようか迷ったが、恐怖が勝り、ただ布団にくるまって震えていた。すると、突然、家の戸を叩く音が響いた。

「ドン!ドン!ドン!」

その音は力強く、木の戸が軋むほどだった。俺は叫びそうになったが、声を出すのも怖くて、ただ唇を噛み締めた。叩く音はしばらく続き、やがて静かになった。ほっとしたのも束の間、今度は家の屋根の上から何かが動く音が聞こえてきた。

「ガリ…ガリ…」

爪で引っかくような音が、頭上を這うように移動する。屋根裏に何かいるのかと思ったが、そんなはずはない。この家に上がれる場所なんてない。それでも音は止まらず、時折「ドスン」と重いものが落ちるような響きが混じる。俺はもう限界だった。布団の中で目を閉じ、朝が来るのを待つしかなかった。

夜が明けると、音はぴたりと止んだ。外に出て屋根を見上げると、そこには黒い染みのようなものが広がっていた。まるで何かが這った跡のようだ。そして、家の周りの水たまりはさらに増え、足跡も昨日より鮮明に残されていた。俺はもうここにいられないと思った。だが、集落を出ようと荷物をまとめていると、近所のおばさんがやってきて、こう言った。

「あんた、夜に田んぼの方を見たね?」

その言葉に俺は凍りついた。おばさんは目を細め、続ける。

「見ちまったら、もう逃げられねぇよ。あれは見られた相手を追い続ける。どこへ行ってもな。」

その日から、俺は毎夜あの足音に悩まされるようになった。引っ越しても、都会に戻っても、どこにいてもあの「チャプ…チャプ…」という音が聞こえてくる。時には窓の外に黒い影がちらつき、時には枕元に水滴が落ちる音がする。俺が見てしまったあの夜から、あの「湿りもの」は俺を離さない。もしかしたら、今この話を書いている瞬間も、どこか近くでその足音が響いているのかもしれない。

「チャプ…チャプ…」

今夜もまた、あの音が近づいてくる。

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