それは、私が高校生だった頃の話だ。
島根県の山間部にある小さな町で育った私は、地元の公立高校に通っていた。学校は町外れの丘の上に建つ、古びたコンクリートの校舎だった。昼間は生徒たちの笑い声で賑わうその場所も、夜になると静寂に包まれ、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。特に、古い校舎の裏手にある雑木林は、風が吹くたびに木々がざわめき、まるで何かが潜んでいるかのような音を立てていた。
ある秋の夜、私は部活の準備のために遅くまで学校に残っていた。文化祭が近く、美術部の仲間たちと一緒に展示用の絵を仕上げていたのだ。時計の針が8時を回った頃、ようやく作業が一段落し、みんなで片付けを始めた。外はすでに真っ暗で、校舎の窓から見えるのは、遠くの街灯の小さな光だけだった。
「そろそろ帰ろうか」と誰かが言い、私たちは荷物をまとめて教室を出た。廊下は薄暗く、非常灯の緑色の光がわずかに足元を照らしていた。みんなで靴箱に向かいながら、他愛もない話をしていたが、その時だった。どこか遠くから、「タン、タン」という乾いた音が聞こえてきた。
最初は気にも留めなかった。古い校舎だから、どこかで木が軋んでいるのだろうと思った。でも、その音は次第に近づいてきて、規則正しいリズムを刻んでいることに気づいた。まるで、誰かがゆっくりと歩いているような足音だった。
「ねえ、聞こえる?」私は隣にいた友人に小声で尋ねた。彼女は首を振って、「何?風の音じゃない?」と笑った。でも、私にはそうは思えなかった。音は確実に廊下の奥、暗闇の中から近づいてきていた。
私たちは急いで靴を履き替え、外に出た。校舎の玄関を出た瞬間、冷たい風が頬を撫で、背筋がゾクッとした。でも、足音はまだ聞こえていた。今度は校舎の中ではなく、外から——裏手の雑木林の方から響いてきたのだ。
「何だろ、これ」と別の友人が不安そうにつぶやいた。私たちは顔を見合わせ、なんとなく嫌な予感がした。でも、好奇心もあって、懐中電灯を手に持った私は、「ちょっと見てくる」と言い、雑木林の方へ近づいてみた。みんなは「やめなよ」と止めたが、私の足は勝手に動いていた。
雑木林の入り口に立つと、木々の間から冷たい空気が流れ出てきた。懐中電灯の光を向けると、細い獣道のようなものが奥に続いているのが見えた。そして、その瞬間、またあの足音が聞こえた。「タン、タン」。今度はすぐ近くからだ。
私は息を飲んで光を動かした。すると、木々の間に何か白いものがチラッと見えた気がした。服か?髪か?よくわからない。でも、それが動いているのは確かだった。心臓がドクドクと鳴り、私は後ずさりした。
「何!?何!?」と友人が駆け寄ってきたが、私は言葉にならず、ただ「何かいる」とだけ言った。私たちは慌てて校舎の方へ戻り、鍵をかけて職員室に駆け込んだ。そこには遅くまで残っていた先生がいて、私たちの様子を見て驚いた顔をした。
事情を説明すると、先生は「まさかね」と笑ったが、私たちの怯えた表情を見て、「とりあえず見てくるよ」と懐中電灯を持って外に出てくれた。私たちは職員室の窓から、先生が雑木林の方へ向かうのを見守った。
しばらくして先生が戻ってきた。「何もなかったよ。風の音か、動物でもいたんじゃないか」と言う。でも、私には納得できなかった。あの足音は、明らかに人間のものだった。そして、あの白い影。あれは一体何だったのか。
その夜、私は家に帰っても眠れなかった。布団の中で目を閉じると、あの「タン、タン」という音が耳に蘇ってくる。翌日、学校でその話をすると、あるクラスメイトがこんなことを言った。
「そういえばさ、数年前、この学校で変な噂があったよ。夜中に校舎を歩く幽霊の話。昔、裏の雑木林で何かあったとかでさ…」
私はゾッとした。詳しく聞こうとしたが、彼は「ただの噂だよ」と笑ってそれ以上話してくれなかった。でも、その日から、私は夜の校舎に近づくのが怖くなった。部活で遅くなるときも、必ず誰かと一緒に行動するようにした。
それから数週間後のことだ。文化祭が終わり、いつものように部活仲間と遅くまで残っていたある夜、またあの足音を聞いた。今度ははっきりと、校舎の二階から聞こえてきた。私たちは凍りつき、誰も動けなかった。すると、足音が階段を下りてくる音に変わった。「タン、タン、タン」。一歩一歩、確実にこちらへ近づいてくる。
「逃げよう!」誰かが叫び、私たちは慌てて荷物を掴んで玄関へ走った。でも、靴箱に着いたとき、異変に気づいた。私の靴が、片方だけなくなっていたのだ。みんなの靴は揃っているのに、私のだけが。
「どうしよう…」と私が立ち尽くしていると、背後からまた足音が聞こえた。今度はすぐ近く、廊下の角から響いてくる。私は振り返る勇気もなく、友人に引っ張られるようにして外へ飛び出した。
その後、靴は結局見つからなかった。先生に相談しても、「誰かのいたずらじゃないか」と言われただけだ。でも、私は確信していた。あれはいたずらなんかじゃない。あの足音と白い影は、私たちに何か伝えようとしていたのではないか。
それ以来、私は夜の校舎で妙な気配を感じることが多くなった。誰もいないはずの教室から物音がしたり、窓の外に誰かが立っているような影を見たり。友人は「気のせいだよ」と言うけれど、私にはそう思えなかった。
今でも、あの足音の正体を考えると背筋が寒くなる。島根の小さな町の、古い校舎に潜む何か。あれは一体何だったのか。そして、私の靴を奪った理由は何だったのか。答えはわからないまま、数年が過ぎた。でも、あの夜の恐怖は、今でも私の心に深く刻まれている。