山形の小さな田舎町に引っ越してきてから、ちょうど一ヶ月が経った頃だった。
私は仕事の都合で都会を離れ、自然に囲まれたこの場所で新たな生活を始めたばかり。最初は静かな環境に癒されていたが、ある夜を境にその平穏は脆くも崩れ去った。
その日は残業で遅くなり、終バスを逃してしまった。仕方なく、会社から家まで数キロの道のりを歩いて帰ることにした。時計はすでに23時を回っていて、街灯もまばらな田舎道は闇に沈んでいた。冷たい風が木々を揺らし、遠くでフクロウの鳴き声が響く。少し心細かったが、慣れた道だし大丈夫だろうと自分を励ました。
しばらく歩いていると、道の脇に古びたバス停が見えてきた。錆びついた看板には文字がかすれて読めず、時刻表も色褪せてボロボロになっていた。そこに停まっていたのは、見慣れない廃バスだった。塗装は剥がれ、窓ガラスは埃で曇り、明らかに何年も放置されている様子だった。こんな時間にこんな場所で、廃バスがあるなんて不思議だなと思ったが、疲れていた私は特に深く考えず、その横を通り過ぎようとした。
すると、背後で「キィ…」と金属が擦れるような音が聞こえた。振り返ると、廃バスのドアがゆっくりと開いていくのが見えた。誰もいないはずなのに。心臓がドクンと跳ね上がり、一瞬にして全身が凍りついた。ドアが完全に開くと、中からかすかな光が漏れ出し、薄暗い車内がぼんやりと浮かび上がった。そこには、人影らしきものが座席にいくつか点在しているのが見えた。
「誰かいるのか?」と声をかけてみようかと思ったが、喉がカラカラに乾いて言葉が出なかった。目を凝らすと、その人影たちは動かない。ただじっとこちらを見ているような気がした。風が一瞬止まり、静寂が耳鳴りのように響く中、突然、車内の一番奥の座席にいた影が立ち上がった。背が高く、異様に細長いシルエット。頭部がこちらを向いた瞬間、目が合ったような感覚に襲われた。でも、その顔には目も鼻も口もなかった。ただ真っ黒な空白があるだけだった。
恐怖が全身を突き抜け、私は反射的に走り出した。背後で「ドン、ドン」と何か重いものが床を叩く音が聞こえ、それが徐々に近づいてくる。振り返る勇気なんてなかった。息が上がって足がもつれそうになりながらも、必死に家を目指した。どれだけ走ったかわからないが、やっと自宅の明かりが見えた瞬間、全力でドアを開けて中に入り、鍵をかけた。
息を切らしながら窓の外を見ると、そこには何もなかった。廃バスも、あの人影も、まるで最初から存在しなかったかのように。ただ、静かな夜の風景が広がっているだけだった。でも、胸の奥に残る恐怖は消えなかった。あれは夢だったのか、それとも現実だったのか。確かめる術もないまま、私は電気をつけたまま眠れぬ夜を過ごした。
翌朝、近所のおばさんにその話をしてみた。すると彼女は顔を曇らせ、「あそこには近づかない方がいいよ」と言った。昔、そのバス停近くで事故があったらしい。乗客を乗せたバスが崖から転落し、全員が亡くなった。その後、廃バスが放置されたままになり、夜な夜な奇妙な噂が絶えないのだという。「見ちゃった人は、運が悪けりゃ何か連れて帰ってくるよ」と笑いものにするように言われたが、その表情はどこか怯えているようだった。
それから数日後、私はまた同じ道を歩くことになった。どうしても避けられない仕事の都合だった。今度は昼間だったから大丈夫だろうと思ったが、バス停に近づくにつれ、空気が重くなるような感覚がした。廃バスはまだそこにあった。でも、昼の光の下で見ると、ただの古い車両にしか見えない。安心したのも束の間、窓ガラスに映る自分の姿の横に、ぼんやりとした人影が映り込んでいるのに気づいた。振り返っても誰もいない。なのに、ガラスの中ではその影がじっと私を見つめていた。
その日から、家の中で妙なことが起こり始めた。夜中に足音が聞こえたり、誰もいない部屋から物音がしたり。ある晩、寝ていると首筋に冷たい息がかかる感覚に目を覚ました。薄暗い部屋の中で、天井の隅に黒い影が蠢いているのが見えた。それはゆっくりと這うように動き、私の頭上まで来たところで止まった。息を殺して目を閉じると、耳元で「ヒィ…ヒィ…」というかすれた呼吸音が聞こえた。動けなかった。恐怖で体が硬直し、ただ朝が来るのを待つしかなかった。
朝になり、影は消えていたが、私は限界を感じていた。この家に、この町にいることが耐えられなくなった。結局、私は荷物をまとめて別の場所に引っ越すことにした。最後に家を出る日、荷物を車に積みながらあのバス停の方をちらりと見ると、廃バスの窓に無数の手形がついているのが見えた。まるで内側から押されたように。ぞっとした私は急いで車に乗り込み、二度とその町には戻らないと心に誓った。
今でも、あの夜のことを思い出すと体が震える。あの廃バスにいたものは何だったのか。なぜ私を見つけたのか。そして、私が逃げた後も、あのバス停にはまだ何か潜んでいるのだろうか。そんなことを考えるたびに、背後から冷たい視線を感じる気がしてならない。