明治の頃、東京の片隅にひっそりと佇む小さな村があった。
そこは古びた木造の家々が軒を連ね、昼間でも薄暗い路地が続く場所だった。村人たちは質素な暮らしを営み、夜が更けると早々に戸を閉ざし、外に出る者はほとんどいなかった。なぜなら、この村には古くから語り継がれる「何か」が棲んでいるという言い伝えがあったからだ。
その「何か」は、闇の中で蠢き、人々の恐怖を喰らうとされていた。村の古老たちは、決してその名を口にせず、ただ「爪痕を残すもの」と呼んだ。子供たちは夜道で妙な音を聞いたと怯え、大人たちはそれを「風のせいだ」と笑いものにしていたが、心のどこかで誰もが感じていた——見えない何かが、確かにそこにいる。
ある秋の夜、村に住む若い娘が姿を消した。彼女は普段から明るく、村人たちに愛される存在だった。両親は慌てて近隣を探し回ったが、足跡すら見つからず、まるで夜の闇に溶けるように消えてしまった。翌朝、彼女の家の裏手にある竹林の奥で、奇妙なものが見つかった。地面に深々と刻まれた爪痕——人間の手では到底及ばない、鋭く長い三本の線が、血の跡と共に残されていた。
村人たちはざわめき、古老たちに助言を求めた。古老の一人は震える声でこう告げた。「あれが目覚めたのだ。血を欲し、魂を喰らう。お前たち、夜は決して外に出るな」と。それでも、娘の行方を諦めきれなかった兄は、松明を手に竹林へと向かった。彼は幼い頃から妹を守ってきた責任感の強い男で、たとえ命を失うとしても、妹を連れ戻すつもりだった。
竹林は静寂に包まれていたが、風が吹くたびに竹が擦れ合い、不気味な音を立てた。兄は松明を掲げ、足元の爪痕を追った。次第にその跡は深くなり、まるで何かが地面を抉るように進んだ形跡が続いていた。そして、竹林の奥深く、開けた場所にたどり着いた時、彼は凍りついた。
そこには妹がいた。彼女は目を閉じ、まるで眠るように地面に横たわっていた。しかし、その体は異様だった。顔は青白く、両腕には無数の細かい傷が刻まれ、まるで何かに引っ掻かれたかのようだった。そして彼女の周囲には、さらに多くの爪痕が円を描くように広がっていた。兄は震える手で妹に触れようとしたが、その瞬間、背後から低く唸るような音が響いた。
振り返った彼の目に映ったのは、闇そのものだった。人の形を歪に模したような影が、ゆらゆらと揺れながら近づいてくる。顔はなく、ただ黒い穴のような目が二つ、じっと彼を見つめていた。その手——いや、爪と呼ぶべきか——は異様に長く、先端は鋭く曲がり、まるで獲物を引き裂くために生まれたかのようだった。兄は叫び声を上げ、松明を振り回したが、闇はその光すら飲み込むように迫ってきた。
次の朝、村人たちが竹林に足を踏み入れた時、兄の姿はなかった。ただ、妹の亡骸のそばに、新たな爪痕が一つ増えていただけだった。村はその日からさらに静かになり、人々は夜の闇を恐れるようになった。だが、恐怖はそれで終わりではなかった。
数日後、別の家から子どもの泣き声が消えた。また別の夜には、老夫婦が寝床から忽然と姿を消した。どの家にも共通していたのは、窓や戸に残された深い爪痕だった。村人たちは祈りを捧げ、神仏にすがったが、何の効果もなかった。まるでその怪物は、人々の信仰すら嘲笑うかのように、次々と命を奪っていった。
やがて、村に一人の旅人が訪れた。彼は異国風の装いをした男で、背中に奇妙な模様の入った布袋を背負っていた。村人たちは藁にもすがる思いで彼に助けを求めた。男は静かに村の様子を聞き、爪痕をじっと見つめた後、こう言った。「これは人の手によるものではない。古の怨念が形を得たものだ。俺がなんとかしてやるよ」。
その夜、男は竹林の中心に陣取り、布袋から取り出した道具を並べ始めた。錆びた刀、奇妙な符が貼られた壺、そして小さな鈴。彼は鈴を鳴らし、何かを唱えながら闇を睨みつけた。村人たちは遠くからその様子を見守ったが、やがて竹林から響き始めた異様な音に身を震わせた。それは獣の咆哮とも人の叫びともつかぬ、耳を劈くような音だった。
夜が明ける頃、男は竹林から戻ってきた。顔には深い傷が刻まれ、服は血で汚れていたが、彼は静かにこう告げた。「もうあれは出てこない。だが、この村に残る恐怖は消えん。お前たちが忘れなければな」。男はそのまま村を去り、二度と戻ることはなかった。
それから長い年月が経ち、村は次第に廃れていった。今ではそこにあったはずの家々も竹林も、ただの荒れ地と化している。だが、地元の者たちの間では、今でも語り継がれる噂がある。秋の夜、風が強くなると、どこからか爪が地面を掻くような音が聞こえるという。そしてその音が近づく時、決して振り返ってはならない——なぜなら、そこには闇に蠢く「何か」が、未だに獲物を求めているからだ。