私は香川の田舎町に住む会社員だ。毎日の生活は単調で、朝早く起きて仕事に行き、夜遅くに帰宅する。そんな繰り返しの中で、ある夏の夜、奇妙な出来事に遭遇した。
その日は残業で遅くなり、終電を逃してしまった。仕方なく、普段は使わない裏道を通って帰ることにした。月明かりが薄く、街灯もまばらなその道は、昼間でもどこか不気味な雰囲気が漂っている。木々が風に揺れる音と、遠くで鳴く虫の声だけが響いていた。
しばらく歩いていると、道の脇に古びた鳥居が立っているのに気づいた。苔むした石段がその先へ続いているが、こんな場所に神社があったなんて今まで知らなかった。気味が悪いと思いながらも、疲れていた私は少し休もうと石段に腰を下ろした。
すると、どこからともなく低い唸り声が聞こえてきた。風の音かと思ったが、明らかに何かが近くにいる気配がする。辺りを見回しても誰もいない。背筋が冷たくなり、急いで立ち上がろうとしたその瞬間、鳥居の向こうから白い影がスッと動いた。人の形をしているように見えたが、足がない。まるで浮いているようだった。
心臓が跳ね上がり、逃げようとしたが足がすくんで動けない。影はゆっくりとこちらに近づいてくる。顔は見えないが、長い髪が風に揺れ、その動きが不自然に感じられた。そして、耳元でかすかな声がした。「おいで…」
その声に引き寄せられるように、私は鳥居の向こうへ一歩踏み出してしまった。すると、景色が一変した。目の前には薄暗い森が広がり、遠くにはぼんやりとした灯りが揺れている。さっきまでの道は消え、鳥居さえも見当たらない。私はどこかに迷い込んでしまったのだと悟った。
森の中を歩き始めると、木々の間から何かが私を見ている気配がした。振り返っても何もいないが、視線を感じる。足音が聞こえるたびに立ち止まるが、それは私の足音ではない。誰かが、または何かが、私を追いかけてくるようだった。
しばらく歩くと、小さな集落にたどり着いた。古い家々が並び、どの家も明かりがついているのに人の気配がない。静寂が不気味に響き、まるで時間が止まったような感覚に襲われた。すると、一軒の家の縁側に座る老婆が目に入った。彼女は私を見つめると、ゆっくりと笑みを浮かべた。その笑顔が異様に歪んでいて、歯が異常に長い。
「ここにいるべきじゃないよ」と老婆が言った。声は低く、まるで地の底から響いてくるようだった。私は恐怖で言葉が出ず、ただ立ち尽くしていた。老婆は立ち上がり、こちらに近づいてくる。その手には何か黒いものが握られていた。よく見ると、それは私のカバンだった。なぜ彼女がそれを持っているのか、理解できなかった。
逃げようとした瞬間、老婆の姿が消え、同時に集落全体が霧に包まれた。霧の中から無数の囁き声が聞こえてくる。「帰れない」「ここにいろ」「おいで」――声は次第に大きくなり、私の頭を締め付けるようだった。
必死に走り、霧の中を抜けると、再びあの鳥居の前に立っていた。息を切らしながら振り返ると、森も集落も消え、ただ暗い道が続いているだけだった。カバンは手に持っていたが、中身がすべてなくなっていた。時計を見ると、時間がほとんど進んでいないことに気づいた。あの長い恐怖体験が、ほんの一瞬の出来事だったかのように。
それからというもの、私は裏道を通るのをやめた。だが、夜になるとあの老婆の笑顔や囁き声が頭に浮かび、眠れなくなることが多い。同僚にその話をすると、「あそこには昔、神隠しがあった場所があるって噂だよ」と言われた。冗談半分に聞いていたが、今ではそれが本当だったのではないかと思っている。
最近、家の近くで妙なことが起き始めた。夜中に窓の外から誰かが私を覗いているような気がする。カーテンを開けても誰もいないが、視線を感じる。ある晩、勇気を出して外を見ると、遠くに白い影が立っていた。あの夜の影と同じだった。
今でも思う。あの鳥居をくぐった時、私は何かを持ち帰ってきてしまったのではないか。そして、それはまだ私を見ているのではないか、と。