夜の田園に響く泣き声

怪奇現象

それは、ある夏の夜のことだった。

田んぼが広がる愛知県の片隅、寂れた集落に住む私の家では、その日も蒸し暑さが夜まで残っていた。エアコンなんて贅沢品はなく、窓を開け放ち、虫の声を聞きながら眠りにつくのが常だった。30年ほど前の話だから、携帯電話もなければ、近所にコンビニなんてものもない。夜になると辺りは真っ暗で、遠くの山から聞こえる獣の遠吠えが、時折静寂を切り裂いた。

その夜、私はいつものように布団に横になっていた。母は隣の部屋で眠り、父は仕事で遅くまで帰らない日だった。時計の針は11時を少し回った頃。外からカエルの合唱が聞こえていたが、ふとその音が途切れた。虫の声もピタリと止まり、不自然な静けさが辺りを包んだ。私は何となく胸騒ぎを感じ、目を閉じていられなくなった。

すると、遠くの方から、かすかに聞こえてきた。女の泣き声だ。最初は小さく、風に紛れて届くような音だったが、次第にそれははっきりと私の耳に届くようになった。すすり泣くような、か細い声。まるで誰かが助けを求めているかのようだった。私は布団の中で身を固くし、耳を澄ませた。家の周りは田んぼと雑木林ばかりで、近所といっても数百メートル先に数軒あるだけ。こんな時間に誰かが外にいるはずがない。

泣き声は徐々に近づいてくるようだった。家の裏手にある小さな用水路のあたりから聞こえてくる。私は恐る恐る窓に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。月明かりが田んぼをぼんやりと照らし、水面がキラキラと光っている。だが、人の姿はどこにも見えない。それでも泣き声は止まらず、むしろ大きくなっている気がした。まるで家のすぐそばにいるかのように。

「ねえ、助けて……」

突然、はっきりと声が聞こえた。私は息を呑み、窓から飛び退いた。心臓がドクドクと鳴り、手が震えていた。女の声だった。悲しげで、切実で、どこか怨めしい響きがあった。私は母を起こそうかと一瞬思ったが、足がすくんで動けなかった。すると、今度は家の裏口の方から、ガリガリと何かを引っかくような音が聞こえてきた。まるで爪で木を削るような、不気味な音だ。

恐る恐る台所の方へ目をやると、裏口のガラス戸に何かが見えた。暗闇の中でぼんやりと浮かぶ、白い影。人の形をしているように見えたが、顔はよくわからない。ただ、その影がじっとこちらを見ている気がして、私は全身が凍りついた。泣き声はさらに大きくなり、「助けて……助けて……」と繰り返していた。声は裏口のすぐ外から聞こえてくる。

私は意を決して母の部屋に駆け込み、彼女を揺り起こした。「お母さん、変な声がする!外に誰かいる!」母は寝ぼけ眼で私を見たが、私の必死な顔を見てすぐに起き上がった。母が懐中電灯を手に持つと、私たちは一緒に裏口へと向かった。泣き声はまだ続いている。母がガラス戸に近づき、懐中電灯で外を照らした瞬間、声がピタリと止んだ。外には誰もいなかった。用水路も田んぼも、月明かりに照らされて静かに広がっているだけだ。

「何かの聞き間違いじゃないか?」母はそう言って私を落ち着かせようとしたが、私は確信していた。あの声は確かに聞こえたし、あの白い影も見たのだ。その夜は母と一緒に寝たが、眠れるはずもなく、朝まで目を閉じられなかった。

翌日、近所のおばあさんにその話をすると、彼女は顔を曇らせた。「あんた、あの泣き声を聞いたのかい?」彼女の言葉に私は驚いた。おばあさんによると、昔、その集落の近くで若い女が用水路で亡くなったことがあったそうだ。恋人に裏切られ、身を投げたのだという。それ以来、夏の夜になると、彼女の泣き声が聞こえるという噂があった。おばあさんは「絶対に声に答えちゃいけないよ。あれに呼ばれたら、連れてかれちまうからね」と真剣な顔で私に言った。

それから数日後の夜、またあの泣き声が聞こえてきた。今度は家の周りをぐるぐると回るように聞こえ、時には窓のすぐ外から、時には屋根の上から聞こえてくる。私は布団をかぶり、耳を塞いでやり過ごした。母にも話したが、彼女には聞こえないらしく、私を心配そうに見るだけだった。次第にその声は毎晩のように聞こえるようになり、私は夜が来るのが怖くて仕方なくなった。

ある晩、とうとう我慢できなくなった私は、泣き声が聞こえた瞬間に外へ飛び出した。懐中電灯を手に持つ私の手は震えていたが、もう逃げているだけでは耐えられなかった。家の裏の用水路に近づくと、そこに白い影が立っていた。長い髪を垂らし、ぼろぼろの服を着た女だった。顔は見えないが、確かにそこにいる。彼女は私の方を向くと、ゆっくりと手を伸ばしてきた。「助けて……」その声は耳元で囁くように響いた。

私は恐怖で叫び声を上げ、その場にへたり込んだ。すると女の姿はスッと消え、泣き声も止んだ。気がつくと朝になっていて、私は用水路のそばで気を失っていたらしい。近所の人に発見され、家に運ばれた私は、それからしばらく高熱を出して寝込んでしまった。

あれから30年が経ち、私はその集落を離れて別の場所で暮らしている。あの夜のことは今でも夢に見ることがあり、目を覚ますと汗びっしょりになっている。実家に帰るたびにあの用水路を見るたびに、背筋が寒くなる。あの女がまだそこにいるような気がしてならないのだ。最近、母から聞いた話では、近所の人がまたあの泣き声を聞いたらしい。夏の夜、田んぼの奥から聞こえてくるのだという。

あの声に呼ばれたら、連れていかれる。おばあさんの言葉が、今でも私の耳に残っている。

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