薄闇が村を包み込む頃、それはいつも始まった。
佐賀の山深い集落に暮らす私は、幼い頃から祖母に言い聞かされていた。「夜道を歩くときは決して後ろを振り返るな」と。明治の世になっても、この村では古い言い伝えが息づいており、人々はそれを頑なに守っていた。だが、ある夏の夜、私はその掟を破ってしまった。
その日は村の祭りの後片付けで遅くなり、空には半月がぼんやりと浮かんでいた。山道を一人で帰る途中、背後から微かな音が聞こえてきた。カサ…カサ…。枯れ葉を踏むような、かすかな足音だった。最初は風か獣の仕業だと思ったが、音は私の歩調に合わせて近づいてくる。心臓が早鐘を打ち、祖母の言葉が脳裏をよぎった。振り返ってはいけない。絶対に。
だが、人間とは愚かなものだ。恐怖に耐えきれず、私は肩越しにちらりと後ろを見た。そこには誰もいなかった。ただ、闇が広がるばかりだ。しかし、その瞬間、足音が止まった。静寂が耳を刺す。安堵と不安が交錯する中、私は早足で家を目指した。
家に辿り着き、戸を閉めた瞬間、再び足音が響き始めた。カサ…カサ…。今度は家の外をぐるりと回るように。障子に映る影はない。風もない夜に、何かが家の周りを歩き回っている。私は息を殺し、布団に潜り込んだ。すると、足音は家の縁側に上がり、ゆっくりと私の部屋へと近づいてきた。
トン、トン、トン。板張りの床が軋む音がする。私は目を閉じ、ただ祈った。祖母が教えてくれた古い呪文を心の中で唱え続けた。どれほどの時間が経ったのか、気付けば音は消えていた。朝日が差し込むまで、私は一睡もできなかった。
翌日、村の古老にその話をすると、彼は顔を青ざめさせた。「お前が見たのは、死に損ないの亡魂だ」と。古老の話では、明治の初め、この村で大規模な疫病が流行ったことがあった。多くの者が死に、満足に葬られなかった魂が山野を彷徨い、生者の気を吸って生き延びようとするのだという。特に臨死の淵に立った者を執拗に追い、命を奪おうとするらしい。私は思い出した。あの夜、祭りの疲れで熱っぽく、意識が朦朧としていたことを。
それからというもの、私は夜道を歩くたびに背後に気配を感じるようになった。振り返ることは決してしないが、足音はいつもそこにある。カサ…カサ…。時には耳元で囁くような声が聞こえる。「お前はもう俺のものだ」と。村の者には笑いものだが、私には紛れもない現実だ。
ある晩、私は高熱にうなされ、夢とも現ともつかぬ世界に落ちた。そこは薄闇に覆われた山道で、目の前にはぼんやりとした人影が立っていた。顔は見えないが、痩せこけた手足が異様に長く、まるで骨と皮だけの亡者のようだった。それは私を見つめ、ゆっくりと近づいてくる。私は逃げようとしたが足が動かない。恐怖で喉が締まり、声すら出せなかった。
その時、耳元で声がした。「目を覚ませ」と。はっと目を開けると、母が私の額に手を当てて心配そうに覗き込んでいた。夢だったのか。だが、額に残る冷や汗と、微かに聞こえる縁側の足音が、私に現実を突きつけた。あれは夢ではなかったのだ。
以来、私は夜になるたびに怯えながら暮らしている。村を出ようかと考えるが、亡魂は私をどこまでも追いかけてくるだろう。古老が言うには、それは私が死に近い状態にあったときに目撃してしまったがゆえに、私を「半分死んだ者」として狙っているのだと。生と死の狭間に立つ私は、もはや逃げ場がないのかもしれない。
今でも、静かな夜にはあの足音が聞こえる。カサ…カサ…。それは私の命を削り取るように、じわじわと近づいてくる。私はただ、薄闇の中で息を潜め、朝を待つしかない。