それはある秋の夜のことだった。冷たい風が街を吹き抜け、街灯の明かりがちらちらと揺れていた。私は仕事帰りにいつもの道を歩いていた。駅から少し離れた住宅街の一角、細い路地裏を通るのが近道だった。普段なら気にせず通り抜ける場所だが、その日は何か違う空気を感じていた。
路地に入ると、どこからか低い囁き声が聞こえてきた。最初は風の音かと思い、気にせず歩を進めた。しかし、その声は次第にハッキリと聞こえるようになった。『…こっちだよ…』。振り返っても誰もいない。薄暗い路地の両側には古びた木造家屋が並び、窓からは一切の光が漏れていなかった。まるでそこに住む人々が全員消えてしまったかのようだった。
私は足を速めたが、囁き声はさらに近づいてくるようだった。『…見てるよ…』。背筋が凍り、心臓が早鐘を打つ。路地の出口まであと少しというところで、ふと横の家の軒下に目をやった。そこには、ぼんやりとした人影が立っていた。顔は見えない。ただ、真っ黒なシルエットがじっと私を見つめているのが分かった。
慌てて走り出した瞬間、後ろから冷たい手が肩に触れた気がした。振り払うように出口へと飛び出し、明るい通りに出た時には息が上がっていた。振り返ると、路地は静まり返り、あの人影も消えていた。だが、あの囁き声だけは耳に残り続けていた。
それから数日後、気になってその路地のことを調べてみることにした。古い新聞の縮刷版を漁っていると、30年前にその付近で起きた事件の記事を見つけた。ある男が家族を皆殺しにした後、自ら命を絶ったという凄惨な事件だった。場所は私が通ったあの路地裏のすぐ近く。記事には、近隣住民の証言として『夜になると変な声が聞こえる』と書かれていた。
ぞっとした私は、それ以来その道を通るのをやめた。しかし、別の道を歩いている時でさえ、時折あの囁き声が遠くから聞こえてくることがある。『…どこへ行くの…』。それはまるで、私を見張っているかのようだった。
ある日、会社の同僚とその話をした。彼は笑いものだと言わんばかりに鼻で笑ったが、興味本位でその路地を通ってみると言い出した。私は止めたが、彼は『そんなオカルト、信じるわけないだろ』と意気揚々と出かけて行った。
翌日、彼は会社に来なかった。連絡も取れない。心配になった私は彼の家を訪ねたが、誰も出てこない。仕方なく近所の住人に尋ねてみると、昨夜遅くに彼がフラフラと歩いているのを見たという。そして、そのままあの路地裏の方へ向かったらしい。
警察に届け出たが、彼は見つからなかった。ただ、数日後、路地の奥で彼の靴だけが片方、ぽつんと置かれているのが発見された。それ以来、私はあの囁き声が聞こえるたびに目を閉じ、耳を塞ぐようになった。だが、声は頭の中に直接響いてくるようになり、もはや逃げ場はないのかもしれない。
今でもあの路地裏のことを思い出すと、全身が震える。あの黒い人影は一体何だったのか。そして、あの囁き声はどこから来るのか。答えを知るのが怖くて、私はもう二度とあの場所に近づかないと心に誓った。だが、時折、夢の中であの路地に立っている自分を見ることがある。その時、耳元で囁く声がする。『…ずっと一緒だよ…』。
あれから何年も経つが、恐怖は薄れるどころか増すばかりだ。あの夜、私は何かを取り憑かれてしまったのだろうか。それとも、あの路地裏自体が何かを引き寄せる場所だったのだろうか。真相は分からない。ただ一つ確かなのは、あの囁き声が私を追い続ける限り、平穏な日は訪れないということだ。