山間の宿で見た影
その夜、私は和歌山県の山奥にある古びた宿に泊まることになった。都会の喧騒から逃れ、静かな自然の中で心を休めようと思ったのだ。宿は鄙びた木造の建物で、長い年月を経た軋む床と薄暗い照明が、どこか懐かしくも不気味な雰囲気を漂わせていた。宿の主人は瘦せた老人で、言葉少なに鍵を渡してくれた。笑顔はなく、ただじっとこちらを見つめるその目は、何か言い知れぬ感情を湛えているように見えた。
部屋は二階の角にあり、畳の匂いが鼻をつく。荷物を置いて一息ついていると、外からかすかな風の音が聞こえてきた。窓の外には深い森が広がり、月明かりが木々の間を縫うように照らしている。静寂の中、遠くでフクロウの鳴き声が響き、それが妙に心をざわつかせた。私は疲れていたのか、そのまま布団に潜り込んで眠りに落ちた。
どれくらい時間が経っただろうか。ふと目を覚ますと、部屋の中が異様に冷え切っていることに気づいた。息が白く、肌が粟立つほどの寒さだ。時計を見ると深夜二時を少し過ぎたところ。寝ぼけ眼で辺りを見回すと、部屋の隅に何か黒い影が立っているのが目に入った。一瞬、置物か何かかと思ったが、次の瞬間、その影がゆっくりとこちらに近づいてきた。
心臓が跳ね上がる。影は人の形をしていたが、顔は見えない。いや、顔があるはずの部分が真っ黒に塗り潰されたように、何もなかった。足音もなく、ただ滑るように近づいてくるその姿に、私は布団の中で身を固くした。声を出そうにも喉が締め付けられ、かすれた息しか漏れない。影は私のすぐそばまで来ると、じっと立ち止まった。その距離、ほんの数十センチ。見えないはずの目が、私をじっと見つめている気がした。
どれだけの時間が過ぎたのかわからない。恐怖で意識が朦朧とする中、影が突然動き出した。今度は私を通り過ぎ、部屋の壁の方へ向かっていく。そして、そのまま壁の中へと消えたのだ。信じられない光景に呆然としていると、遠くで女の泣き声のような音が聞こえてきた。低く、呻くような声が、風に混じって部屋に流れ込んでくる。
翌朝、目を覚ました時にはもう影も泣き声も消えていた。ただ、部屋の中にはまだあの異常な冷気が残っているように感じた。急いで荷物をまとめ、宿を後にしようと一階に降りると、老人が玄関で待っていた。私を見るなり、彼は低い声でこう呟いた。「あんた、あれを見たね」。その言葉に背筋が凍りついたが、私は何も答えず、ただ逃げるように宿を飛び出した。
後で知ったことだが、その宿のある山間には、古くから不思議な言い伝えが残っているらしい。昔、その辺りで旅人を襲う山賊が跋扈しており、ある女が家族を殺され、復讐のために山賊を一人ずつ手に掛けたという。しかし、最後の山賊を仕留めた後、彼女は自ら命を絶ち、その怨念が山に棲みついたとされている。宿の近くでは、時折黒い影や泣き声が聞こえるという噂もあった。
それからというもの、私は夜になるとあの影のことを思い出す。あの冷たい視線が、今もどこかで私を見ているような気がしてならない。あの宿には二度と近づかないと心に誓ったが、時折夢の中であの黒い顔のない影が現れ、私に何かを訴えかけるように佇んでいる。そして、そのたびに遠くで聞こえるあの泣き声が、私の耳にこびりついて離れないのだ。
あれから何年経っただろう。私は今でも、あの夜のことを鮮明に覚えている。山間の宿で見た影は、私の心に深い爪痕を残した。あの宿は今もどこかに存在しているのだろうか。そして、あの影は今も誰かを待ち続けているのだろうか。そんなことを考えるたび、背中に冷たいものが走るのを抑えられない。