山里に響く異様な足音

実話風

群馬の山奥に、ひっそりと佇む小さな集落があった。そこに暮らす人々は、昔ながらの生活を守り、互いに助け合って生きてきた。数十年前のある夏、私はまだ幼く、祖母の家に遊びに来ていた。祖母の家は集落の外れにあり、裏手には深い森が広がっている。昼間は鳥のさえずりが響き、風が木々を揺らす穏やかな場所だったが、夜になると様子が一変した。

その夜、祖母は私にこう言った。「今夜は外に出ちゃダメだよ。変な音が聞こえても、絶対に窓を開けちゃダメだからね。」私はその言葉が気になりながらも、疲れていたのですぐに眠りに落ちた。だが、真夜中近く、ふと目が覚めた。部屋は静まり返り、時計の針がカチカチと時を刻む音だけが聞こえる。すると、遠くから奇妙な音が耳に届いた。

トン、トン、トン……。

それは規則的な足音のようだったが、どこか不自然だった。人間の歩く音にしては重すぎるし、動物にしてはリズムが整いすぎている。私は布団の中で息を潜め、祖母の忠告を思い出した。音は徐々に近づいてくるようで、家の裏の森から聞こえてくるのが分かった。トン、トン、トン……。その音は、まるで何か巨大なものが地面を踏みしめているかのようだった。

しばらくすると、足音が家のすぐ近くまで来た。私は恐る恐る布団から顔を出し、窓の方を見た。薄いカーテン越しに、外の闇が広がっている。月明かりがわずかに差し込み、木々の影が揺れているのが見えた。そして、その時だった。足音がピタリと止まり、代わりに低い唸り声のようなものが聞こえてきた。ゴォォ……という、喉の奥から絞り出すような不気味な音だ。

心臓がドキドキと高鳴り、冷や汗が背中を伝った。私は布団をかぶり直し、目を閉じてじっと耐えた。唸り声はしばらく続き、やがてまた足音が響き始めた。トン、トン、トン……。今度は遠ざかっていくようだった。どれくらい時間が経ったのか分からないが、音が完全に消えると、私はようやく息をつけた。朝まで眠れず、窓の外を見つめていたが、何も見えなかった。

翌朝、祖母にその話をすると、彼女は顔を曇らせてこう言った。「あれはね、山に住む『何か』だよ。昔からこの辺りじゃ、夜に変な音がするときがあるんだ。お前が無事で良かった。」祖母はその後、詳しく語ろうとはしなかったが、集落の古老たちも似たような体験を口にしていたらしい。ある者は「あれは山の神様が歩く音だ」と言い、またある者は「昔、森で死んだ者の魂が彷徨ってるんだ」と囁いた。

それから数日後、私は祖母の家を離れたが、あの足音と唸り声は今でも忘れられない。都会に戻った後も、夜になると時折あの音が耳の奥で甦るような気がした。そして、数年後、祖母が亡くなった時、彼女の遺品の中から古い日記を見つけた。そこには、こんな一文が綴られていた。

「山の音がまた聞こえた。あれは人を呼ぶ音だ。決して近づいてはいけない。」

その言葉を読んだ瞬間、背筋が凍りついた。あの夜、もし私が窓を開けていたらどうなっていたのだろう。祖母の忠告がなければ、私は何か恐ろしいものに引き寄せられていたのかもしれない。それ以来、私はあの集落には二度と近づいていない。

だが、最近になって奇妙な噂を耳にした。集落の近くで、行方不明者が増えているというのだ。山で迷ったのだろうと誰もが言うが、地元の猟師がこんなことを漏らしていた。「最近、夜になると変な足音がするんだ。昔聞いた音と同じだよ。」

私はその話を聞いて、幼い日の恐怖が再び蘇るのを感じた。あの足音は、今も山奥で響いているのだろうか。そして、それは一体何なのか。私には分からない。ただ一つ確かなのは、あの音が聞こえたら、決して近づいてはいけないということだ。

それから時が流れ、私は大人になった。だが、ある夜、夢の中であの足音を聞いた。トン、トン、トン……。目が覚めると、汗で全身がびっしょり濡れていた。窓の外を見ると、都会の夜景が広がっているだけだった。夢だったのだと自分を納得させようとしたが、心のどこかでこう思わずにはいられなかった。あの音は、いつか私を追いかけてくるのではないか、と。

今でも、静かな夜になると耳を澄ませてしまう癖が抜けない。そして、時折、遠くからあの不気味な足音が聞こえてくるような錯覚に襲われるのだ。

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