それは数年前の夏のことだった。
香川県の山間部にある小さな町。その町にひっそりと佇む古びた中学校が舞台だ。校舎は戦後間もない頃に建てられたもので、コンクリートの壁にはひび割れが走り、窓枠は錆びついて今にも崩れそうだった。生徒たちはその雰囲気を「不気味だ」と口にし、教師たちでさえ必要以上に校舎の奥に近づこうとはしなかった。
その学校に通う中学二年生の少年がいた。彼は物静かで友達も少ないタイプだったが、感受性が強く、周囲の些細な変化に敏感に反応する性格だった。ある日、夏休み前の最後の授業が終わり、彼は教室に忘れ物を取りに戻った。夕暮れが迫る中、校舎は静まり返り、遠くでカエルの鳴き声が響くだけだった。
教室に足を踏み入れた瞬間、彼は異様な気配を感じた。空気が重く、まるで誰かに見られているような感覚が背筋を這う。忘れ物を手に持ったまま、彼は急いで教室を出ようとしたが、その時、廊下の奥から小さな音が聞こえてきた。
「カタッ……カタッ……」
何かが床を叩くような音だ。彼は恐る恐る音のする方向を見た。薄暗い廊下の先、非常階段の近くに何かがある。目を凝らすと、それは小さな女の子の人影だった。白いワンピースを着たその子は、長い黒髪で顔を隠し、じっとこちらを見つめているように見えた。
「誰だ……?」
少年が小さく呟くと、女の子は突然動き出した。驚くべきことに、彼女は両足を動かさず、まるで浮いているかのようにスーッと近づいてきた。その異様な動きに少年は凍りつき、足が動かない。女の子の顔は依然として髪で隠れていたが、近づくにつれ、彼女の口元がわずかに見えた。そこには薄い笑みが浮かんでいた。
「ねえ……遊ぼうよ……」
掠れた声が耳元で響き、少年は反射的に叫び声を上げた。次の瞬間、彼は我に返り、全力で校舎の出口へと走り出した。背後からは「カタッ……カタッ……」という音が追いかけてくる。振り返る勇気はなかったが、音はどんどん近づいてくるようだった。
なんとか校門を抜け、自転車に飛び乗った少年は、家に着くまで一度も後ろを見なかった。家に辿り着いた彼は、汗だくで息を切らしながら母親にその話をした。だが、母親は「疲れてるんじゃないの?」と笑いものにし、取り合ってくれなかった。
それから数日後、少年は学校で奇妙な噂を耳にした。かつてその校舎の裏にある森で、小さな女の子が姿を消したというのだ。数十年前、彼女は学校帰りに森で遊んでいて、忽然と消え、その後二度と見つからなかった。地元の古老たちは「あの子は森に呑まれた」と囁き合い、以来、校舎の裏には近づかないのが暗黙の了解となっていた。
少年はその話を聞いて以来、学校の裏側を見るたびに冷や汗が止まらなくなった。夏休みが終わり、新学期が始まっても、彼の心は落ち着かなかった。そしてある日、教室の窓から校舎の裏を何気なく眺めていると、そこに再びあの女の子が立っていた。白いワンピース、長い黒髪、そして薄い笑み。今度ははっきりと、彼女の目がこちらを捉えているのがわかった。
彼女の唇が動いた。声は聞こえなかったが、その口の動きは明らかにこう言っていた。
「見つけた」
少年は恐怖で気を失いそうになった。その日から、彼は学校に来るたびに奇妙な体験をするようになった。夜中に窓を叩く音が聞こえたり、誰もいない教室で「カタッ……カタッ……」という音が響いたり。ある時は、トイレの鏡に映る自分の背後に、白いワンピースの女の子が立っているのを見た。
彼は誰にも相談できなかった。友達はそんな話を信じないだろうし、教師に言えば気でも狂ったと思われるだけだ。彼はただ耐えるしかなかったが、次第に精神がすり減っていった。ある夜、彼は夢を見た。校舎の裏の森に立ち、目の前にあの女の子がいる。彼女は初めて顔を上げ、黒い瞳で少年を見つめた。その瞳は底なしの闇のようで、見つめているだけで吸い込まれそうだった。
「ずっと一緒だよ」
彼女がそう言うと、森の木々がざわめき、地面が揺れ始めた。少年は逃げようとしたが足が動かず、彼女の手がゆっくりと伸びてくる。冷たい指先が頬に触れた瞬間、彼は叫びながら目を覚ました。
翌朝、彼は学校に行くのを拒んだ。両親は心配して理由を尋ねたが、彼はただ「もうあそこには行きたくない」と繰り返すだけだった。結局、彼はその学校を辞め、遠くの町へ引っ越すことになった。
だが、引っ越した後も彼の心は癒えなかった。新しい学校に通い始めても、時折「あの音」が耳に響くことがあった。静かな夜道を歩いていると、背後に「カタッ……カタッ……」と近づいてくる気配を感じる。振り返っても誰もいないのに、その気配は消えない。
彼は今でも思う。あの女の子は本当にただの幻だったのか。それとも、自分を見つけ、追いかけてきた何かがまだそばにいるのか。答えはわからないまま、彼はただ怯えながら日々を過ごしている。
そして、今でもその古びた校舎は山間に佇んでいるという。地元の子供たちは「裏の森には近づくな」と親から言い聞かされ、夜になると誰もその近くを通ろうとはしない。だが、時折、校舎の裏から小さな笑い声が聞こえると囁く者もいる。白いワンピースを着た女の子が、誰かを待つようにそこに立っているのだと。
少年が去った後も、彼女はそこにいるのかもしれない。次の「遊び相手」を探して、静かに、じっと。
終わり。