数十年前、山梨県の山奥にひっそりと佇む小さな村があった。そこは周囲を深い森に囲まれ、外部との交流も少ない、まるで時が止まったような場所だった。村人たちは古くからの言い伝えを守り、森の奥深くには決して近づかないという掟を大切にしていた。だが、ある年の秋、その掟を破った若者が現れ、村に異変が訪れることになる。
その若者は、村一番の猟師の息子だった。気性が荒く、好奇心旺盛で、父親が何度も「森の奥には行くな」と忠告しても、それを笑いものにしていた。ある日、猟に出た彼は、獲物を追ううちにいつしか禁じられた領域へと足を踏み入れてしまう。夕暮れが近づく頃、彼が村に戻ってきた時、その手には見慣れぬ鳥の死骸が握られていた。羽は異様に青白く、目が赤く光っているように見えた。村人たちは不安げに顔を見合わせたが、彼は「ただの鳥だ」と笑い、それを家の軒先に吊るした。
その夜、村に異様な霧が立ち込めた。普段なら秋の澄んだ空気が漂う季節なのに、その霧は重たく、まるで生き物のように村を包み込んだ。家々の窓から漏れる灯りさえもぼんやりとしか見えず、どこか遠くで奇妙な音が響いているような気がした。犬が吠え、赤子が泣き、村人たちは不安に駆られながら戸を固く閉ざした。猟師の息子は「霧なんて珍しくもない」と気にも留めなかったが、家族は彼の持ち帰った鳥をこっそり森の入り口に捨てに行った。
翌朝、霧はさらに濃さを増していた。視界は数歩先さえ定かではなく、村の外れにある川の音すら聞こえないほどだった。異変に気付いたのは、村一番の年寄りだった。彼女は若い頃、森の奥で何かが蠢くのを見たことがあり、それが村に災いをもたらす前兆だと感じていた。「あれが目を覚ました」と呟き、彼女は震える手で古いお守りを握り潰した。村人たちは集まり、どうすべきか話し合ったが、猟師の息子は「迷信に縛られるな」と一蹴し、再び森へと向かった。
彼が森に消えてから数時間後、村に響き渡る叫び声が聞こえた。それは人間のものとも獣のものともつかぬ、耳を劈くような音だった。霧の中から現れたのは、もはや彼とは呼べない何かだった。顔は歪み、目は血走り、手足は不自然に長く伸びていた。村人たちは逃げ惑い、家に隠れたが、その「もの」は戸を叩き、壁を引っ掻き、執拗に中へ入ろうとした。やがて夜が明けると、それは霧とともに姿を消していた。
だが、それで終わりではなかった。翌日から、村人たちが一人、また一人と消え始めた。最初に姿を消したのは猟師の家族だった。彼らが暮らしていた家は空っぽで、ただ床に奇妙な爪痕が残されていた。次に消えたのは近隣の子供で、母親が目を離した隙に忽然といなくなった。村人たちは恐れおののき、誰かが「あの若者が連れてきたものだ」と囁き始めた。霧は日を追うごとに濃くなり、村は外界から完全に隔絶されたかのようだった。
ある夜、村の広場に異様な影が集まっているのが見えた。霧の中で蠢くそれらは、かつての村人たちに似ていたが、どこか異質だった。目が赤く光り、口元が裂けたように広がり、手足が不自然に曲がっている。生き残った数人の村人たちは、広場に近づくことすらできず、家に立て籠もった。だが、その夜を境に、村から人の気配が完全に消えた。霧はやがて晴れ、森は再び静寂を取り戻したが、そこに村があった痕跡は誰にも見つけられなかった。
それから数年後、旅人がその場所を通りかかった時、森の奥からかすかな声が聞こえたという。笑い声とも泣き声ともつかぬその音は、霧のない晴れた日にも関わらず、背筋を凍らせるほど不気味だった。旅人は急いでその場を離れ、二度と近づかなかった。そして今でも、山梨県の山奥には、そんな言い伝えが残っている。森の奥に足を踏み入れると、霧に呑まれ、異界へと連れ去られるのだと。