凍てつく夜の臨死者

実話風

青森の山奥にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む俺は、猟師を生業とする男だった。

今から30年程前、冬の終わりを迎えたある日、いつものように山へ分け入った。雪解けが始まり、獣の足跡が鮮明に残る季節だ。空は鉛色に染まり、風が木々を揺らし、不穏な音を立てていた。獲物を追ううちに、俺はいつしか見慣れた道を外れ、深い森の奥へと迷い込んでいた。

気づけば日は落ち、冷たい闇があたりを包み込んでいた。寒さが骨まで染み、足元の雪が重く感じられた。懐から取り出した火を起こそうと試みたが、手がかじかんで思うように動かない。やがて、意識が遠のき、俺はその場に倒れ込んだ。

どれほどの時間が経ったのかわからない。ふと目を開けると、俺は自分の体を見下ろしていた。雪の上に横たわる俺自身の姿が、そこにあった。驚くべきことに、俺は宙に浮かんでいたのだ。死んだのか?そう思った瞬間、鋭い痛みが胸を貫き、心臓が再び動き出したような感覚がした。

体に戻った俺は、必死に立ち上がろうとしたが、足が凍りついて動かない。その時、遠くからかすかな音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは人の声のように感じられた。目を凝らすと、森の奥から白い影が近づいてくるのが見えた。女だった。長い髪が風に揺れ、白い着物をまとったその姿は、まるで雪そのもののように白く輝いていた。

「助けてくれ」と声を振り絞ったが、喉は凍りつき、かすれた音しか出なかった。女はゆっくりと近づき、俺のすぐそばで立ち止まった。その顔を見た瞬間、全身が凍りついた。目がなかった。黒々とした二つの穴が顔の中央に開き、そこから何か黒いものが滴り落ちていた。口元は裂けるように広がり、歯がむき出しになっていた。

女が手を伸ばしてきた。その指先は異様に長く、爪は鋭く尖っていた。触れられた瞬間、俺の体が一気に冷え込み、心臓が止まるかと思った。だが、不思議と意識ははっきりしていた。女は俺の耳元で何かを囁いた。言葉は聞き取れなかったが、それは怨嗟のような、深い憎しみを帯びた声だった。

次の瞬間、俺は再び宙に浮かび、自分の体を見下ろしていた。女が俺の体に覆い被さり、まるで何かを吸い取るように手を動かしていた。恐怖で叫びそうになったが、声は出ない。やがて女は立ち上がり、俺の体を残して森の奥へと消えていった。

どれだけ時間が経ったのかわからない。再び目を開けた時、俺は雪の中で横たわっていた。体は冷え切っていたが、心臓は弱々しく動いていた。必死に這って集落へと戻り、命からがら助かったのだ。だが、あの女の姿と声は、その後も俺の脳裏にこびりつき、夜になると夢に現れるようになった。

集落の古老にその話をすると、彼は顔を青ざめながらこう言った。「それは雪女だ。山で死にきれなかった者の魂が、生きている者を道連れにしようと彷徨っている。あの夜、お前は死にかけたが、運良く命を拾ったんだろう。だがな、その魂に取り憑かれた者は、決して逃れられないとも言う。」

それからというもの、俺は山へ入るのをやめた。だが、冬が来るたびにあの女の気配を感じる。窓の外で風が鳴るたび、彼女が俺を呼んでいるような気がしてならない。あの夜、俺は本当に生きて帰ってきたのか。それとも、俺の魂はまだあの森に囚われたままなのか。今でもわからない。

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