それは、ある冬の夜のことだった。
青森の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む私は、都会の喧騒から逃れ、自然に囲まれた静かな暮らしを求めていた。家は古びた木造の一軒家で、軋む床と隙間風が絶えない。けれど、その素朴さが気に入っていた。集落には数軒の家が点在するだけで、夜になると辺りは深い闇に包まれる。雪が降り積もり、風が唸りを上げる季節がやってくると、まるで世界から切り離されたような感覚に陥る。
その夜も、いつものように雪が降っていた。窓の外では、風が木々を揺らし、時折枝が折れる鋭い音が響く。私は暖炉に薪をくべ、毛布にくるまって本を読んでいた。時計の針はすでに11時を回り、集落全体が眠りに落ちている時間だ。すると、どこからか奇妙な音が聞こえてきた。
カツン、カツン。
最初は、風に煽られた何かだろうと気にしなかった。だが、その音は一定のリズムを刻み、徐々に近づいてくるように感じられた。耳を澄ますと、それはまるで誰かが雪を踏みしめる足音のようだった。私は窓に近づき、カーテンをそっと開けて外を覗いた。雪が舞う中、街灯の薄暗い光が庭先を照らしている。そこには誰もいない。ただ、白い雪が積もり続けるだけだ。
カツン、カツン。
音はさらに大きくなり、今度は家のすぐ近くで響いている。私は息を殺し、耳を澄ませた。足音は家の周りをぐるりと回るように移動し、時折止まってはまた動き出す。不思議なことに、その足跡は雪の上に一切残っていなかった。まるで、音だけが漂っているかのようだ。
その時、背筋が凍るような感覚が走った。暖炉の火が一瞬にして弱まり、部屋の中が急に冷え込んだ。私は振り返り、暖炉の様子を確認しようとしたが、その前に何か異様な気配を感じた。視線を上げると、部屋の隅に立つ影があった。
それは人影だった。いや、人影に似ている何かだ。ぼんやりとした輪郭しか見えず、顔も手足もはっきりしない。ただ、そこに「いる」という確信だけがあった。私は動けなかった。恐怖が全身を縛り付け、声すら出せない。影はゆっくりとこちらに近づいてくる。その動きは不自然で、まるで糸に吊られた操り人形のようだった。
「誰……?」
やっとの思いで絞り出した声は、震えていて自分でも驚くほど小さかった。影は答えず、ただじっと私を見つめているようだった。そして、次の瞬間、影が消えた。忽然と、跡形もなく。暖炉の火が再び勢いを取り戻し、部屋に温もりが戻った。私は放心状態でその場に座り込み、何が起こったのか理解できなかった。
それから数日間、私は落ち着かない日々を過ごした。あの夜の出来事が頭から離れず、夜になるたびに足音が聞こえる気がして眠れなかった。集落の古老に相談すると、彼は顔を曇らせてこう言った。
「山の奥には、古くから何か得体の知れないものが住んでるって話だ。雪の深い夜に現れて、家々の周りを彷徨うらしい。昔は生贄を捧げて鎮めてたって言うが、今じゃそんな習慣もなくなった……」
その言葉を聞いて、私は背筋が冷たくなった。生贄? 得体の知れないもの? 現代に生きる私には信じがたい話だったが、あの夜の体験がそれを否定させなかった。
ある晩、再び雪が降りしきる夜だった。私は意を決して、家の周りに監視カメラを設置していた。もしあの足音がまた聞こえたら、その正体を確かめようと思ったのだ。深夜、予想通りあの音が響き始めた。
カツン、カツン。
私は急いでモニターを確認した。画面には雪に覆われた庭先が映し出されている。だが、そこには何もいない。足音は確かに聞こえているのに、カメラには誰も映らない。私は混乱しながら別の角度のカメラ映像に切り替えた。すると、家の裏口付近の映像に、奇妙なものが映り込んでいた。
それは、黒い影だった。人の形をしているが、輪郭が歪んでいて、時折その姿がブレるように揺れている。影はゆっくりと裏口に近づき、ドアノブに手を伸ばすような仕草を見せた。私は息を呑み、モニターを見つめた。だが、次の瞬間、影はまた消えた。足音も止まり、静寂が戻った。
その日から、私は毎夜その影に悩まされるようになった。足音は近づき、カメラには映らないはずの影が現れる。時には窓の外からこちらを覗くように立っていたり、家の軋む音に混じって低い呻き声のようなものが聞こえたりした。私は疲弊し、精神が限界を迎えつつあった。
ある夜、ついに我慢の限界を超えた。私は家を飛び出し、車で集落を離れようとした。雪が降り積もり、道は凍てついていたが、そんなことは構っていられない。エンジンをかけ、アクセルを踏み込む。だが、車は突然止まった。電気が落ち、エンジンが再始動しない。私はパニックになりながら外を見た。すると、フロントガラスの向こうにその影が立っていた。
今度ははっきりと見えた。顔はない。目も鼻も口もない。ただ、真っ黒な穴のようなものが顔の部分に広がっている。影はゆっくりとこちらに近づき、ガラスに触れるように手を伸ばした。その瞬間、車内の温度が急激に下がり、吐く息が白く凍りついた。私は叫び声を上げ、ドアを開けて逃げようとしたが、体が動かない。恐怖が私を完全に支配していた。
どれくらい時間が経ったのかわからない。気づいた時、私は車の中で意識を取り戻していた。影はいなくなり、エンジンも正常に動き出した。私は震える手で車を走らせ、そのまま集落を後にした。二度と戻るつもりはなかった。
後日、集落の知人から聞いた話では、私が住んでいた家の周りで、雪の上に不思議な足跡が残っていたという。それは人間の足跡ではなく、細長い爪のような痕が連なったものだった。そして、その家の前の住人も、ある冬の夜に突然姿を消し、それ以来誰も住まなくなっていたという。
今でも、雪の降る夜になると、あの足音が耳に蘇る。カツン、カツン。どこか遠くで、私を追いかけてくるような気がしてならない。あの影はまだ、私を見つけ出そうとしているのだろうか。