山深い三重県のとある峠道。そこは昔から不思議な噂が絶えない場所だった。夜になると霧が立ち込め、道を見失った旅人が二度と戻らなかったという話や、助けを求める声が聞こえるのに誰もいないという怪奇が語り継がれていた。地元の人々は「あの峠には近づくな」と口を揃え、子供の頃からその場所を避けるよう教えられてきた。
俺はそんな話を半信半疑で聞いていた。都会育ちで、怪談なんてものはただの作り話だと高を括っていたからだ。だがその日、仕事で遅くなり、近道をしようとその峠道を通ることにしたのが間違いだった。時刻はすでに深夜0時を回り、周囲は闇に包まれていた。カーナビも電波が悪く途切れがちで、頼りになるのはヘッドライトの薄い光だけ。すると突然、濃い霧が辺りを覆い始めた。視界は数メートル先までしか届かず、俺は焦りながらもアクセルを緩め、慎重に車を進めた。
その時、かすかに何かが聞こえた。最初は風の音かと思ったが、違った。女の声だ。「助けて……助けて……」と繰り返す、掠れた声。俺は背筋が凍る思いで周囲を見回したが、霧の向こうに人影は見えない。幻聴か、それとも疲れからくる錯覚か。俺は自分を落ち着かせようと深呼吸し、無視して運転を続けた。だが声はどんどん大きくなり、今度ははっきりと耳元で囁くように聞こえてきた。「助けて……ここにいるよ……」
心臓が跳ね上がり、思わずブレーキを踏んだ。車が止まった瞬間、助手席側の窓に何かが映った。白い着物を着た女が、長い髪を垂らし、じっと俺を見つめている。顔は青白く、目は虚ろで、口元だけが不自然に歪んでいた。驚きのあまり声も出せず、ただその姿を凝視していると、女がゆっくりと手を伸ばしてきた。窓ガラス越しに、冷たい感触が伝わってくるような錯覚に襲われた。
慌ててエンジンをかけ直し、車を急発進させた。女の姿は霧の中に消え、声も聞こえなくなった。だが安心する間もなく、今度は後部座席から奇妙な音がし始めた。ガリガリと何かを引っかくような音。恐る恐るバックミラーを見ると、そこにはさっきの女が座っていた。首が不自然に傾き、俺をじっと見つめている。目が合う瞬間、女がニタリと笑った。歯が黒く腐り、口から血のようなものが滴り落ちていた。
俺は叫び声を上げながらアクセルを踏み込んだ。車は霧の中を猛スピードで突き進み、どうにか峠を抜けた。街灯の明かりが見えた時、全身の力が抜けた。後部座席を確認する勇気はなく、そのまま家に帰り着いた時には朝になっていた。車を降りて初めて気づいたが、助手席側の窓には無数の手形が残されていた。指先が異様に長く、爪の跡がガラスに刻まれている。俺は震える手でそれを拭おうとしたが、どうしても消えなかった。
それから数日後、俺は高熱を出して寝込んだ。夢の中で何度もあの女が現れ、耳元で「一緒にいてあげるよ」と囁き続けた。目が覚めると、体が異様に重く、鏡を見れば顔が青白くなっている。医者に診てもらっても原因は分からず、ただ「疲れだろう」と言われただけだ。だが俺には分かっていた。あの峠で何かを持ち帰ってしまったのだ。
ある夜、限界を感じた俺は地元の古老に相談に行った。話を聞いてくれた老人は、厳しい表情でこう言った。「あんた、あの峠で死に損なったんだよ。あの女は昔、そこで命を落とした魂で、生きた人間の気を吸ってこの世に留まろうとする。助けを求める声に反応した時点で、あんたは標的にされたんだ」。老人は塩と護符を渡し、「これで身を清めなさい」と告げた。
その夜、俺は言われた通りに塩を体に擦り込み、護符を握り潰して眠った。するとまた夢の中で女が現れたが、今度は近づいてこない。憎しみに満ちた目で俺を睨みつけ、「お前は逃げられない」と呟いた後、霧の中に消えた。目覚めた時、体が軽くなっていた。鏡を見ると顔色も戻り、手形も消えていた。あれ以来、女の声は聞こえなくなったが、俺は二度とあの峠に近づくことはないだろう。
今でもあの夜のことを思い出すと、全身が冷たくなる。あの霧の中にはまだ、助けを求める声が響いているのかもしれない。そしてそれを聞いた誰かが、また俺と同じ目に遭うのかもしれない。そう考えるだけで、眠れない夜が続いている。