凍てつく夜の臨死者

怪談

それは、冬の終わりを迎えたある夜のことだった。

石川県の山間部に位置する小さな集落。雪がまだ残る森の奥深くに、私は友人と二人でキャンプをしていた。冷え込む夜気をしのぐため、焚き火を囲みながら、他愛もない話をしていた。空には星が瞬き、風が木々を揺らす音が静寂を埋めていた。だが、その穏やかな時間が一変する瞬間が訪れるとは、想像すらしていなかった。

友人が薪を拾いに森の奥へ行ってから、どれくらい時間が経っただろうか。時計を見ると、すでに深夜を回っていた。彼が戻らないことに不安を覚え、私は懐中電灯を手に持つと、彼の名前を呼びながら森の中へ足を踏み入れた。雪に覆われた地面は足跡を残し、冷たい空気が肺に刺さる。遠くでフクロウの鳴き声が響き、不気味さを増していた。

「どこにいるんだよ!」

声は森に吸い込まれ、返事はない。木々の間を縫うように進むうちに、懐中電灯の光が何かを捉えた。それは、雪の上に倒れている友人の姿だった。慌てて駆け寄ると、彼は目を閉じ、息をしているのかさえ分からないほど冷たくなっていた。顔は青白く、唇は紫色に変色している。私は彼を抱き起こし、必死に呼びかけた。

「おい、起きろ!冗談じゃないぞ!」

その時、彼の瞼が微かに動き、ゆっくりと目を開けた。だが、その瞳は私を見ていないようだった。焦点が合わず、どこか遠くを見つめている。彼の口が震えながら開き、低い声で呟いた。

「…あそこにいる…見えるか?」

彼の視線を追うと、木々の間にぼんやりとした人影が見えた。暗闇に溶け込むような黒い輪郭。懐中電灯を向けても、その姿は光に照らされることなく、ただそこに佇んでいる。私は背筋が凍るのを感じた。友人は再び目を閉じ、意識を失ったように動かなくなった。私は彼を担ぎ、急いでテントに戻った。

翌朝、友人は目を覚ましたが、昨夜のことをまるで覚えていないようだった。彼曰く、薪を拾っているうちに突然意識が遠のき、次に気づいた時にはテントの中にいたという。私は昨夜の出来事を話したが、彼は笑いものだと取り合わなかった。しかし、私にはあの黒い人影が脳裏に焼き付いて離れなかった。

それから数日後、友人と別れ、私は集落の古老にこの話を聞いてもらうことにした。山を知り尽くしたその老人は、私の話を聞くうちに表情を硬くした。そして、重い口調でこう語り始めた。

「あの森にはな、昔から妙な噂がある。雪の降る夜、死に損ねた者を見張る影が現れるってな。そいつは生と死の狭間にいる者を連れ去ろうとする。見ちまったお前さんは運が良かったのか悪かったのか…」

私は言葉を失った。友人が見た「あそこにいる」という言葉が、頭の中で反響する。あの影は一体何だったのか。友人を連れ去ろうとしていたのか、それとも私を試していたのか。

それから数年が経ち、私は再びあの森を訪れることはなかった。だが、毎年冬が近づくと、あの夜の記憶が蘇る。冷たい風が窓を叩くたび、耳元で囁くような声が聞こえる気がする。「見えるか?」と。友人は今も元気に暮らしているが、彼があの夜、本当に生と死の境界に立っていたのだとしたら、私は何を見たのだろうか。

ある晩、私は夢を見た。雪に覆われた森の中、友人が立っている。だが、彼の背後にはあの黒い影が寄り添うように佇んでいた。友人が振り返り、私を見つめて微笑む。その顔は、かつて見た青白い顔と同じだった。私は叫び声を上げて目を覚ました。時計は深夜を指し、外では風が唸っていた。

今でも思う。あの影はまだ森に潜んでいるのだろうか。そして、私が再びあの場所へ足を踏み入れた時、それは私を待っているのだろうか。凍てつく夜の臨死者として。

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