岐阜県の山間部にひっそりと佇む、古びた学校があった。そこはもう長いこと使われていない廃校で、地元の人々には「入るな」と囁かれる場所だった。校舎は苔に覆われ、窓ガラスは割れ、風が吹くたびに軋む音が響き渡る。子供たちの笑い声がこだましたであろう校庭は、雑草に埋もれ、錆びた鉄棒だけが寂しげに立っていた。
ある夏の夜、俺は友達三人と一緒にその廃校に忍び込むことにした。きっかけは些細なものだった。酒を飲みながら怪談話をしていたら、誰かが「あの学校、幽霊が出るらしいぜ」と言い出した。酔った勢いで「じゃあ確かめに行こうぜ」と盛り上がり、そのまま車を走らせた。時計はすでに深夜0時を回っていた。
校門に着いたとき、まず感じたのは異様な静けさだ。山の中だから虫の声くらいはするはずなのに、何も聞こえない。まるで時間が止まったような感覚に襲われた。懐中電灯を手に持つ俺の手が、微かに震えているのに気づいた。友達の一人が「やめとくか?」と呟いたが、もう一人が「ビビってんのかよ」と笑い、結局全員で中に入ることにした。
校舎の中は予想以上に荒れ果てていた。床には埃が積もり、壁には落書きが残され、教室の机は倒れたまま放置されていた。懐中電灯の光が揺れるたび、影が不気味に伸びて見える。俺たちは一階の廊下を進みながら、冗談を言い合って緊張を紛らわそうとした。でも、どこかで何かおかしいと感じていた。
最初に異変に気づいたのは俺だった。二階に続く階段の近くで、かすかに「タン、タン」という音が聞こえた。靴音のような、規則正しいリズム。最初は風か何かだと思ったが、音は徐々に近づいてくる。友達に「聞こえるか?」と尋ねると、全員が顔を見合わせ、頷いた。俺たちは一斉に懐中電灯を階段の方へ向けたが、そこには何もなかった。ただ、暗闇が広がるだけだ。
「誰かいるのか?」と大声で叫んでみたが、返事はない。でも、足音は止まらない。むしろ、どんどん大きくなってくる。俺たちの背筋が凍りついた瞬間、友達の一人が「あれ、見てみろ」と震える声で言った。階段の上の暗闇に、白い影が揺れている。ぼんやりとした輪郭は、まるで子供の姿のようだった。
俺たちは一瞬固まったが、次の瞬間、全員が出口に向かって走り出した。足音が追いかけてくるような気がして、振り返る余裕すらなかった。廊下を抜け、玄関を飛び出し、校門まで一気に駆け抜けた。車に飛び乗り、エンジンをかけたとき、やっと少しだけ冷静さを取り戻した。後部座席の友達が「あれ、何だよ…」と呟きながら後ろを振り返った。その顔が急に青ざめた。
「窓に…何かいる」と彼が言った。俺も助手席から校舎の方を見た。確かに、二階の窓に白い影が立っている。じっとこちらを見つめているような気がした。距離が遠くて顔までは見えないが、その視線が突き刺さるように感じた。車が動き出した瞬間、影がスッと消えた。でも、俺たちの心臓はまだバクバクしていた。
それから数日後、俺はあの夜のことを友達と話していた。すると、別の友達が「あの学校、昔変な噂があったよな」と言い出した。なんでも、ずっと前にその学校で、子供が階段から落ちて死んだことがあったらしい。事故か何かだったらしいが、詳しいことは誰も知らない。ただ、その子の幽霊が夜な夜な校舎を彷徨っているという噂だけが残ったそうだ。
俺はその話を聞いて、背中に冷たいものが走るのを感じた。あの足音、あの白い影。本当にただの偶然だったのか?それとも、俺たちは何か見てはいけないものに触れてしまったのか?今でもあの夜のことを思い出すと、耳の奥で「タン、タン」という音が響く気がする。そして、どこかで誰かに見られているような感覚が消えない。
あれから俺はその廃校に近づいていない。でも、たまに地元の古老から「あの学校にはまだ何かいる」と聞くたび、あの夜の恐怖が蘇る。あの足音は、俺たちが逃げ出した後も、ずっと校舎の中で響き続けているのかもしれない。