呪われた古井戸の囁き

呪い

数年前、香川県の山間部にひっそりと佇む小さな集落に、私は引っ越してきた。

そこは古い家屋が軒を連ね、時間が止まったかのような場所だった。都会の喧騒に疲れ、自然の中で静かに暮らしたいと願った私にとって、最初は理想的な環境に思えた。集落の人々は穏やかで、畑仕事に勤しむ姿が日常の風景だった。しかし、引っ越して間もないある晩、私は奇妙な出来事に遭遇した。

家の裏手には、苔むした古井戸があった。直径は1メートルほどで、蓋もなく、黒々とした水面が底知れぬ深さを覗かせていた。昼間はただの古びた井戸にしか見えなかったが、夜になるとそこから妙な音が聞こえてくるのだ。最初は風の音か、動物の気配かと思った。でも、耳を澄ませると、それは明らかに人の声だった。囁くような、かすれた声。言葉は聞き取れないが、何かを訴えているような切実さが感じられた。

「気味が悪いな」と呟きながら、私はその夜、早々に床に就いた。だが、眠りに落ちる直前、枕元でその囁きが聞こえた気がした。ハッと目を覚ますと、部屋は静まり返り、ただ自分の荒い息遣いだけが響いていた。夢だったのか、現実だったのか。確かめる勇気もなく、朝を待った。

翌日、近所に住むおばあさんにその話をしてみた。彼女は穏やかな笑顔を浮かべていたが、私が井戸のことを口にした瞬間、表情が凍りついた。「あんた、あの井戸に近づいたのかい?」と、震える声で尋ねてきた。私は正直に頷いた。すると彼女は目を伏せ、「あそこには触れちゃいけないものがある。あんた、気をつけな」とだけ言って、そそくさと家に戻ってしまった。

その言葉が頭から離れず、私は井戸のことが気になって仕方なかった。集落の古い言い伝えに何かあるのではないか。そう思い、別の日に、集落で一番年長のおじいさんに話を聞いてみることにした。彼は縁側で煙草を吸いながら、私の質問にゆっくりと答えた。「あの井戸かい。あれは昔、呪いの井戸って呼ばれてたよ。村に災いが続いた時にな、ある女が身を投げて、それで平穏が戻ったって話さ。それ以来、誰も近寄らない。あの声が聞こえるって言うなら、気をつけた方がいい。あれは生きてる人間の声じゃないからね」。

その話を聞いてから、私は井戸に近づくのをやめた。だが、囁きは止まなかった。夜な夜な聞こえてくる声は、日に日に大きくなり、私の名前を呼んでいるようにさえ感じた。眠れない夜が続き、疲れ果てた私は、ある決断をした。井戸を覗いてみることにしたのだ。

月明かりのない真っ暗な夜、私は懐中電灯を手に裏庭へ出た。井戸の縁に近づくと、冷たい風が吹き上げてきて、肌が粟立った。恐る恐る光を水面に当てると、そこには何も映らない。ただ黒い水が静かに揺れているだけだった。ホッとしたのも束の間、突然、井戸の底から泡が浮かび上がり、水面がざわめき始めた。そして、次の瞬間、私の名前を呼ぶ声がはっきりと響いた。「おいで…おいで…」。それは女の声だった。低く、粘りつくような声。私は恐怖で足がすくみ、その場にへたり込んでしまった。

どれくらい時間が経ったのかわからない。気付けば朝になっていて、私は井戸のそばで気を失っていたらしい。体は冷え切り、服は湿っていた。それからというもの、私は毎晩、夢の中でその井戸に引きずり込まれるようになった。夢の中の私は、井戸の底で女に掴まれ、暗い水の中に沈んでいく。彼女の顔は見えないが、長い髪が私の体に絡みつき、逃げられない。目が覚めると、全身が汗でびっしょりで、喉が異様に渇いている。

集落の人々は、私の様子がおかしいことに気づき始めたようだった。だが、誰も深入りしようとはせず、遠巻きに見ているだけだった。ある日、家のポストに一枚の紙が投げ込まれていた。そこには殴り書きでこう書かれていた。「井戸に供物を捧げなさい」。誰が書いたのかわからない。だが、その言葉にすがるように、私は翌日、近くの川で獲れた魚を井戸に投げ入れた。すると、その夜、囁きが初めて止んだ。安堵した私は久しぶりに深い眠りに落ちた。

しかし、それも束の間の平穏だった。数日後、囁きが再び戻ってきた。今度は怒りを帯びたような声で、私を責めるように響く。「足りない…もっと…もっと…」。私は何をすればいいのかわからず、ただ怯えるしかなかった。魚では足りないのだろうか。それとも、もっと大きな供物が必要なのか。考えれば考えるほど、恐ろしい想像が頭をよぎった。

ある嵐の夜、事態はさらに悪化した。雷鳴が轟く中、井戸から聞こえる声が叫び声に変わった。「お前が…お前が来い!」と。それはもう人間の声とは思えない、怨念に満ちた咆哮だった。私は家の中で震えながら、扉に鍵をかけ、窓を閉め切った。だが、声は壁を突き抜けて耳に届き、頭の中を支配した。そして、突然、家全体が揺れ始めた。地震かと思ったが、揺れは不規則で、何かが這うような音が床下から聞こえてきた。

私は逃げ出した。荷物をまとめる余裕もなく、車に飛び乗り、集落を後にした。後部座席にはあの井戸の水が染み出したような異臭が漂い、バックミラーには何か黒い影が映り込んでいた。必死でアクセルを踏み、夜の山道を走り抜けた。どれだけ走ったかわからないが、ようやく町の明かりが見えた時、私は涙を流しながら車を止めた。

それ以来、私はその集落には戻っていない。あの家も井戸も、今どうなっているのかわからない。ただ、一つだけ確かなことがある。あの囁きは、私の心に深い爪痕を残した。今でも静かな夜になると、耳の奥でかすかに「おいで…」と聞こえる気がする。あの女はまだ私を待っているのだろうか。そして、私はいつか、あの井戸の底に引きずり込まれるのではないか。そんな恐怖が、ずっと消えないのだ。

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