数十年前の冬、北海道の山奥にひっそりと佇む小さな集落があった。そこに住む男は猟師として生計を立てていた。ある晩、彼はいつものように猟に出かけ、雪に覆われた森の奥深くへと足を踏み入れた。風が木々を揺らし、遠くでフクロウの鳴き声が響く。男は獲物を求めて歩き続けていたが、その日は何故か獲物がまるで見つからない。
夜が更けるにつれ、冷え込みは一層厳しくなり、男の吐く息が白く凍りつくほどだった。すると、どこからか微かな音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは人の声のように感じられた。囁き声だ。男は耳を澄ませたが、言葉ははっきりと聞き取れない。ただ、何か不気味な響きが森全体に広がっているようだった。
「誰かいるのか?」
男は声を上げたが、返事はない。代わりに囁き声が少しずつ大きくなり、まるで複数の声が重なり合っているかのように聞こえた。男の背筋に冷たいものが走った。彼は猟銃を手に持ったまま、周囲を見回した。雪に覆われた木々の間には何も見えない。しかし、声は確実に近づいてきている。
やがて、男は異変に気づいた。自分の足跡が消えているのだ。雪の上を歩いてきたはずなのに、振り返ってもそこには何の痕跡も残っていない。まるで自分がこの森に存在していないかのように。不安が胸を締め付ける中、囁き声はさらに鮮明になり、ついに言葉として聞き取れるようになった。
「お前はここにいるべきではない。」
その瞬間、男の目の前に影が現れた。黒い人影だったが、顔も手足もはっきりしない。ただ、じっとこちらを見つめているような気配がした。男は反射的に猟銃を構えたが、引き金を引く前に影は消え、代わりに冷たい風が彼を包み込んだ。耳元で囁き声が響き続ける。
「お前は見つけた。お前は見つけた。」
何を? 男は混乱しながら森の中を走り出した。雪が深く、足を取られながらも必死で集落へと戻ろうとした。しかし、どれだけ走っても景色は変わらない。同じ木々、同じ雪原が延々と続く。まるで森そのものが男を閉じ込めているかのようだった。
夜が明ける頃、男は力尽きて雪の上に倒れ込んだ。凍える体を震わせながら、彼は最後に見たものを思い出した。それは、遠くの木々の間に立つ無数の影だった。どれも顔がなく、ただじっとこちらを見つめている。囁き声が頭の中で響き続け、男の意識は徐々に薄れていった。
翌日、集落の者たちが男を探しに出たが、彼の姿はどこにもなかった。ただ、森の奥で猟銃だけが見つかった。銃には奇妙な傷が刻まれていたが、それが何を意味するのか誰も分からなかった。それ以来、集落ではその森に近づく者を禁じるようになった。だが、夜になると、森の奥から微かな囁き声が聞こえてくるという。
数年後、別の猟師が好奇心からその森に足を踏み入れた。彼は帰ってこなかったが、集落の外れに彼の靴が一足だけ残されていた。靴の中には凍りついた血がこびりついており、その日から囁き声はさらに大きくなったと語り継がれている。
今でも、冬の夜にその森の近くを通る者たちは、風に混じって聞こえる声に怯えている。誰かが「お前は見つけた」と囁いているような気がしてならないのだ。そして、森の奥にはまだ何かが見つかるのを待っているのかもしれない。凍てつく闇の中で、静かに、だが確実に。