大阪府のどこか、寂れた町の片隅に、古びた一軒家があった。
そこに住む老婆は、近隣でも奇妙な噂の絶えない人物だった。彼女は決して笑わず、誰とも目を合わせようとしない。ただ、毎晩のように家の奥から微かな呻き声が漏れ、通りかかる者を凍りつかせる。ある夏の夜、その家に興味を持った若者たちが、肝試しのつもりで近づいた。彼らは学生で、退屈な日常に刺激を求めていたのだ。
「なぁ、あの婆さんの家、入ってみねぇか?」
リーダー格の少年が提案すると、他の三人は渋々頷いた。門を越え、軋む木戸を押し開けると、湿った土とカビの臭いが鼻をついた。家の中は薄暗く、埃だらけの畳が足元で沈む。懐中電灯の明かりを頼りに進むと、奥の部屋にたどり着いた。そこには、異様な雰囲気を放つ古い鏡が置かれていた。鏡枠は黒ずみ、表面には無数の細かい傷が刻まれている。だが、不思議とその鏡は曇っておらず、暗闇の中で彼らの顔をありありと映し出した。
「何だよこれ、ただの汚ねぇ鏡じゃん」
一人が笑いものにするように言った瞬間、鏡の中の彼の顔が歪んだ。驚いた少年が後ずさると、他の三人も鏡に目をやった。すると、それぞれの映った顔が、微かにだが確実に動き始めた。口が勝手に開き、目がぎょろりとこちらを見据える。恐怖に震えながらも、彼らはその場を離れられなかった。まるで鏡に吸い寄せられるように。
その時、背後でかすかな足音がした。振り返ると、老婆が立っていた。彼女の目は虚ろで、手には錆びた短刀が握られている。少年たちは悲鳴を上げて逃げようとしたが、足が鉛のように重く、思うように動かない。老婆は一言も発せず、ただじりじりと近づいてくる。そして、彼女が鏡の前に立った瞬間、鏡の中の少年たちの姿が消え、代わりに老婆の顔だけが映し出された。だが、それは老婆の顔ではなかった。目が落ち窪み、口が裂けたように広がり、髪が蛇のようにうねる異形のものだった。
「見たなぁ……」
老婆の口から初めて声が漏れた。それは低く、喉の奥から絞り出すような音だった。少年たちは恐怖で声も出せず、ただ立ち尽くすしかなかった。老婆が短刀を振り上げた瞬間、一人が我に返り、仲間を押しのけて逃げ出した。他の三人は呆然とその背中を見送ったが、次の瞬間、短刀が振り下ろされ、血が畳に飛び散った。
逃げ出した少年は、必死で町の外まで走り続け、ようやく友人の家にたどり着いた。震える手で事情を説明すると、友人は青ざめた顔でこう言った。
「あの家……何年も前に火事で焼けて、更地になってるよ。お前、どこに行ってたんだ?」
少年は言葉を失った。彼が逃げてきた道を友人と一緒に確認しに行くと、そこには確かに何もない空き地が広がっていた。だが、その中心に、あの鏡だけがぽつんと立っていた。鏡に近づくと、またしても少年の顔が映り、口がゆっくりと動き始めた。
「お前だけ逃げやがって……」
それは、殺された仲間の声だった。少年は叫び声を上げ、その場に崩れ落ちた。それ以来、彼は口をきかなくなり、やがて町から姿を消したという。
それから月日が流れ、鏡は別の誰かに拾われた。拾った男は骨董品好きで、鏡の異様な雰囲気を気に入り、自宅に持ち帰った。だが、その夜から奇妙なことが起こり始めた。鏡の前を通るたび、背筋に冷たいものが走る。夜中になると、鏡の表面に知らない顔が浮かび上がり、彼を見つめるのだ。最初は錯覚だと思っていたが、ある晩、鏡の中の顔がはっきりと笑い声を上げた。男は恐怖に駆られ、鏡を捨てようとしたが、どうしても手放せない。鏡に触れるたび、手が痺れ、頭の中に声が響く。
「捨てるなら、お前が代わりになれ」
男は次第に正気を失い、鏡を手に持ったまま町を彷徨うようになった。近隣の者は彼を避け、子どもたちは「あの鏡を持ったおじさんは呪われてる」と囁き合った。そして、ある雨の夜、男は忽然と姿を消した。鏡だけが、道端に転がっていた。
その後も、鏡は転々と持ち主を変え、拾う者すべてに呪いをもたらした。鏡に映る顔は増え続け、時には泣き、時には笑い、時には恨めしげにこちらを見つめる。鏡を手にした者は、やがてみな同じ運命を辿った。眠れなくなり、食欲を失い、鏡から離れられなくなる。そして最後には、鏡の中に吸い込まれるように消えていくのだ。
ある時、鏡は古道具屋の店先に並べられた。店主は鏡の来歴を知らず、ただ古めかしいデザインに惹かれて仕入れただけだった。だが、客がその鏡を見ると、決まって顔を背け、店を出ていく。ある晩、店主が閉店作業をしていると、鏡の中からかすかな声が聞こえた。
「お前も見たなぁ……」
店主が振り返ると、鏡の中に自分の顔が映っていた。だが、その顔はすでに彼のものではなく、目が落ち窪み、口が裂けた異形のものだった。店主は悲鳴を上げ、鏡を叩き割ろうとしたが、鏡はびくともしない。それどころか、割れそうになるのは店主の精神の方だった。
翌朝、店は無人となり、鏡だけが静かにそこにあった。やがて鏡はまた誰かに拾われ、新たな呪いの連鎖が始まった。鏡がどこに流れ着いたのか、今も誰も知らない。ただ、大阪府のどこかで、誰かがその鏡を手にし、呪いの囁きに耳を傾けているのかもしれない。
鏡は今も存在し続け、拾う者を待ち続けている。もし、あなたが古びた鏡を見かけたら、決して近づかないでほしい。触れなければ、見なければ、呪いはあなたに届かない。だが、もしその鏡があなたの顔を映し、囁き始めたら……もう逃げられない。