それは、ある静かな夏の夜だった。
私は友人の誘いで、茨城県の山奥にある小さな集落を訪れていた。そこは携帯の電波も届かず、舗装されていない細い道が続く場所だった。友人は「地元じゃ有名な心霊スポットがあるんだ」と興奮気味に語り、私を連れ出したのだ。普段ならそんな話に興味はなかったが、退屈な日常を抜け出したくて、ついその誘いに乗ってしまった。
目的地は、集落から少し離れた場所にある沼だった。地元では「蛇神の沼」と呼ばれ、古くから近づくなと伝えられている場所らしい。友人は「昔、村人がその沼で何かを目撃して以来、誰も近寄らなくなった」と説明した。その「何か」が何なのかは曖昧で、ただ不気味な雰囲気を漂わせるだけだった。
夜の9時を回った頃、私たちは懐中電灯を手に沼のほとりに立っていた。周囲は深い森に囲まれ、風が木々を揺らす音と、時折聞こえる虫の声だけが響いていた。沼の水面は黒く、まるで底が見えない闇のようだった。私は少し寒気を感じながら、友人に「本当にここでいいのか?」と尋ねた。彼は笑いながら「大丈夫だって、ちょっと雰囲気楽しむだけだよ」と答えた。
その時だった。水面に小さな波紋が広がった。風もないのに、まるで何かが動いたかのように。私は目を凝らして見つめたが、何も見えない。友人も気づいたようで、「おい、見ただろ?」と少し震えた声で言った。私は冗談半分に「魚でもいるんじゃない?」と返したが、心のどこかで嫌な予感が広がっていた。
すると、沼の奥から低い音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは言葉のようになっていった。「……かえせ……かえせ……」と、かすれた声が繰り返し響く。私は凍りついた。友人も顔を青ざめさせ、「何だこれ?」と呟いた。私たちは一瞬顔を見合わせ、次の瞬間、二人とも無言でその場を離れようとした。
だが、足が動かない。まるで地面に吸い付くように、体が重く感じられた。私は必死に足を動かそうとしたが、膝から下が鉛のように固まっていた。友人が私の腕をつかみ、「動け!早く!」と叫んだが、彼の声もどこか遠くに聞こえた。その時、沼の水面が大きく揺れ、黒い影がゆっくりと浮かび上がってきた。
それは人影だった。長い髪が水面に広がり、顔は見えない。ただ、その影はこちらを向いているようだった。私は息が詰まり、心臓が早鐘を打つのを感じた。友人が「見るな!」と叫び、私の顔を無理やりそむけさせたが、その声さえも恐怖に震えていた。
影が近づくにつれ、囁きはさらに鮮明になった。「お前が持っていった……返せ……返せ……」私は何も持っていない、何を言っているのか分からない、と頭の中で叫んだが、声に出せなかった。友人が突然私の手を離し、一人で走り出そうとした。だが、次の瞬間、彼の体が沼の方へ引き寄せられるように倒れた。
私は悲鳴を上げた。友人の体は水面に触れると、まるで何かに引っ張られるように沈んでいった。助けようと手を伸ばしたが、私の体もまた動かない。沼の水が彼を飲み込む音が耳にこびりつき、私はただ立ち尽くすしかなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。気づくと、私は一人で森の入り口に立っていた。友人の姿はなく、懐中電灯さえも消えていた。私は震える足で集落に戻り、助けを求めた。だが、村人たちは私の話を聞くと顔を見合わせ、静かに首を振った。「あそこに行ったのか」と一人が呟き、別の老人が「蛇神の呪いだ」とため息をついた。
それから数日後、私は友人の行方を捜すため警察に連絡したが、彼の足取りは沼の周辺で途絶えていた。誰もその沼に近づこうとはせず、捜査はすぐに打ち切られた。私は現実を受け入れられず、毎夜のように悪夢にうなされた。夢の中では、沼から這い出た影が私の名前を呼び、冷たい手で首を締めつけてくる。
そして、ある夜、私は気づいてしまった。家の机の上に、見覚えのない小さな石が置かれていたのだ。黒く、濡れたような光沢を放つ石。あの沼の底から持ち帰ってしまったものなのかもしれない。私は震える手でそれを握り、窓の外を見た。遠くの闇の中から、またあの囁きが聞こえてきた。「返せ……返せ……」
今もその石は私の手元にある。捨てようとしたが、どうしても手放せない。毎夜、囁きは近づき、私は眠るたびに沼の底に引きずり込まれる感覚に襲われる。あの沼の呪いは、私を離さない。そして、いつか私も友人のように消えるのだろうか。そんな恐怖が、私の心を蝕み続けている。