それは、ある蒸し暑い夏の夜のことだった。
俺は大学時代の友人と共に、栃木県の山奥にある廃墟を訪れていた。そこはかつて病院として使われていた建物で、数十年前に閉鎖されて以来、放置されているという噂だった。地元の人間からは「近づくな」と警告される場所だったが、好奇心と若さゆえの無鉄砲さで、俺たちはその忠告を無視してしまった。
車を降り、懐中電灯を手に持つ。辺りは虫の声だけが響き、月明かりが薄く廃墟の輪郭を浮かび上がらせていた。崩れかけたコンクリートの壁、割れたガラス窓、蔦に絡まれた看板。どこか不気味で、でもそれが逆に俺たちを興奮させた。
「なぁ、ここって本当にやばい雰囲気だな」と友人が笑いながら言った。俺も「だろ?でもさ、幽霊なんているわけねえよ」と強がって返した。内心では少しだけ胸がざわついていたけど、そんな気持ちは仲間と一緒なら紛れるものだと思っていた。
建物の中に入ると、空気は一変した。外の湿気とは違う、冷たく重い何かが体を包む。懐中電灯の光が埃っぽい廊下を照らし、剥がれた壁紙や錆びたベッドフレームが目に飛び込んでくる。足音がやけに大きく響き、時折、どこか遠くで木が軋むような音が聞こえた。
「ちょっと探検してみようぜ」と友人が提案し、俺たちは別々に進むことにした。彼は1階の奥へ、俺は2階に上がる階段を見つけてそっちへ向かった。階段は古く、踏むたびにギシギシと不穏な音を立てる。それでも好奇心が勝り、俺は登り続けた。
2階に着くと、そこは長い廊下が伸びていて、いくつもの部屋が並んでいた。どの部屋もドアが開け放たれ、中には古い医療器具や埃をかぶった椅子が放置されている。懐中電灯を振ると、影が不自然に揺れて見えた。風もないのに、カーテンの端が微かに動いている気がした。
その時、遠くから低い声が聞こえた。
「……ここ……出して……」
一瞬、耳を疑った。友人の声じゃない。もっと低く、かすれた、まるで喉の奥から絞り出すような声だった。俺は慌てて懐中電灯を声の方向へ向けたが、長い廊下の先には何も見えない。ただ、暗闇がより濃くなったような感覚があった。
「誰だよ!ふざけんな!」と叫んでみたけど、声は虚しく響くだけ。すると、またその声が聞こえた。今度は少し近く、はっきりと。
「……ここから……出して……」
背筋が凍った。冗談でもなんでもない、本能が危険を訴えてくる。俺は踵を返し、階段へ向かって走り出した。足音が廊下に反響し、心臓がバクバクと暴れる。階段を駆け下りながら、友人を呼んだ。「おい!早く戻れ!何かおかしいぞ!」
1階に降りると、友人が慌てた顔で走ってくるのが見えた。「お前、今の声聞いたか!?」と彼が叫ぶ。「聞こえた!何だあれ!?」と俺も返す。どうやら彼も同じ声を聞いたらしい。2人で急いで出口へ向かったが、その瞬間、背後からドンッと大きな音がした。振り返ると、さっきまで開いていたはずのドアが勢いよく閉まるのが見えた。
「やばい、やばい、やばい!」友人が叫びながら出口へ走る。俺も必死に追いかけた。外に出た瞬間、冷たい夜風が体を包み、ようやく現実に戻った気がした。車に飛び乗り、エンジンをかけると同時に後ろを振り返った。廃墟の窓から、ぼんやりとした白い影がこちらを見ている気がした。
車を飛ばしてその場を離れ、しばらく走ってからようやく落ち着いてきた。友人が震える声で言った。「なぁ、あの声……人間の声じゃなかったよな?」俺は黙って頷くしかなかった。あの声は、確かに生きている人間のものじゃなかった。
後日、俺はその廃墟について少し調べてみた。地元の古老によると、あの病院ではかつて患者が不審な死を遂げたことがあり、特に2階の病棟では「助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえるという噂があったらしい。閉鎖後も、廃墟に近づいた者が同じような声を聞くことがあり、中には行方不明になった者もいたという。
俺たちは運良く逃げられたけど、あの夜のことは今でも夢に見る。あの声が耳にこびりついて離れない。もしまたあの廃墟に行くかと聞かれたら、絶対に断る。あそこには何かいる。何か、俺たちを「出して」と呼ぶものが。