朽ちた祠の夜泣き

オカルト

奈良の山奥にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは鬱蒼とした森に囲まれ、昼なお暗い場所だった。今から20年ほど前のこと、ある夏の夜、俺は友人と肝試しにその集落へと足を踏み入れた。

集落に着いたのは日が落ちた頃だった。懐中電灯の明かりだけが頼りで、虫の声がやけに大きく響き渡っていた。舗装もされていない細い道を進むと、すぐに古びた家々が目に入った。どれも人が住んでいる気配はなく、窓ガラスは割れ、屋根には苔が生えていた。まるで時間が止まったかのような風景に、俺たちは少し気味が悪くなりながらも奥へ奥へと進んでいった。

しばらく歩くと、道の脇に小さな祠を見つけた。石でできたそれはひどく風化していて、苔と蔦に覆われていた。中に何が祀られているのかは分からない。ただ、祠の前には赤い布が落ちていて、それが妙に生々しく感じられた。友人が「何かヤバそうだな」と呟いた瞬間、どこからか低い泣き声が聞こえてきた。

「ん?何だこれ」と俺は辺りを見回した。風の音かと思ったが、木々は静かに揺れているだけだ。泣き声は確かに聞こえる。しかも、だんだんと近づいてくるような気がした。友人も青ざめた顔で「戻ろうぜ」と言ったが、好奇心と意地がそれを許さなかった。「もうちょっとだけ」と俺は懐中電灯を握り直し、祠の裏に回ってみることにした。

祠の裏はさらに薄暗く、地面は湿っていて足元が滑った。そこにあったのは、祠に寄りかかるように倒れた小さな墓石だった。名前も何も刻まれていない、ただの石だ。それを見て、俺の背筋に冷たいものが走った。泣き声がまた聞こえた。今度ははっきりと、すぐ近くからだ。振り返ると、友人が目を大きく見開いて祠の方を指さしていた。

祠の中から、何かが這い出してきた。黒い影のようなそれは、人の形をしていたが、頭が異様に長く、手足が不自然にねじれているように見えた。泣き声はその影から発せられていた。「うわっ!」と叫んだ瞬間、影がこちらを向いた。顔はなかった。ただ真っ黒な穴が二つ、目のような位置にあるだけだ。その穴が俺たちを見つめている気がして、全身が凍りついた。

友人が俺の腕を引っ張り、「走れ!」と叫んだ。俺たちは一目散に逃げ出した。泣き声が背後で響き、時折ドスッという重い音が混じる。振り返る勇気はなかった。ただひたすらに走り、集落の入り口まで戻った時には息が切れて膝が笑っていた。車に飛び乗り、エンジンをかけた瞬間、後ろから何かがガリッと引っ掻く音がした。バックミラーを見ると、黒い影が車のすぐ後ろに立っていた。

それから何とか町まで逃げ帰ったが、その夜から奇妙なことが続いた。家の窓の外に、時折あの黒い影が立っている気がするのだ。カーテンを開けると何もいない。でも、夜が更けるたびに泣き声が遠くから聞こえてくる。友人に連絡を取ると、彼も同じ体験をしていると言った。あの祠に近づいたことが、俺たちに何かを引き寄せてしまったのかもしれない。

ある晩、とうとう我慢できなくなって、俺は実家に帰ることにした。母ちゃんに事情を話すと、彼女は顔を強張らせて「そんな場所に行ったのか」と呟いた。そして、昔その集落で起きた話を聞かせてくれた。20年以上前、ある女が子を連れて山奥に逃げ込み、そこで暮らしていたらしい。でも、食料が尽きて子が死に、女も狂気に取り憑かれてしまった。その女が最後に見たのが、あの祠だったという。村人たちは彼女を恐れ、誰も近づかなくなったそうだ。

母ちゃんの話が終わる頃、外からまたあの泣き声が聞こえてきた。今度ははっきりと、家のすぐ近くからだ。窓の外を見ると、黒い影がゆらりと立っていた。長い頭とねじれた手足。そして、顔の真っ黒な穴が俺を見つめている。母ちゃんが叫び声を上げた瞬間、影が窓に近づいてきた。ガラスに手のようなものを押し当てると、泣き声が耳をつんざくほど大きくなった。

俺はその後、なんとか家を飛び出し、近くの神社に駆け込んだ。神主に事情を話すと、彼は厳しい顔で「穢れを祓わねばならん」と言い、長い祈りを始めた。その間も泣き声は遠くで響いていたが、次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。神主は「あれは祟りだ。もう二度とその場所に近づくな」と警告した。

それから数年が経ち、俺はあの集落のことを極力思い出さないようにしてきた。でも、時折夢の中であの黒い影が現れる。泣き声とともに、俺をじっと見つめてくるのだ。あの祠に近づいた代償は、想像以上に重かったのかもしれない。今でも、夜の静寂が訪れるたび、遠くからあの声が聞こえてくる気がしてならない。

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