夜の山道に響く奇妙な足音

怪奇現象

それは、ある夏の夜のことだった。

福井県の山間部に住む俺は、普段なら車でしか通らないような田舎道を、珍しく歩いて帰ることにした。仕事が遅くなり、終バスを逃してしまったからだ。時計はすでに23時を回っていて、周囲は静まり返り、虫の声だけが響いていた。山の空気はひんやりとしていて、街灯もない道を頼りにするのは、俺のスマホのライトだけだった。

その道は、集落から少し離れた山の中腹を縫うように続く細い一本道だ。昼間なら車が一台通れる程度の幅しかないが、夜になるとその狭さが一層際立つ。両側には鬱蒼とした杉林が広がり、風が吹くたびに枝が擦れ合って不気味な音を立てる。子供の頃、近所の爺さんから「この辺りは昔、色々あった場所だから夜は近づくな」と言われたのを思い出したが、まさかそんな話が頭をよぎるとは思わなかった。

歩き始めて20分ほど経った頃だろうか。遠くで何か音がした気がした。最初は風か、あるいは鹿か何かだろうと気にしなかった。山の中なら動物の気配くらいはあるものだ。でも、その音は次第に近づいてきて、規則的なリズムを刻み始めた。カツ、カツ、カツ……。足音だ。誰かが俺の後ろを歩いている。

振り返ってみたが、スマホのライトが届く範囲には何も見えない。暗闇が広がるだけだ。「おい、誰かいるのか?」と声をかけてみたが、返事はない。それでも足音は止まらず、むしろ少しずつ近づいてくるような気がした。俺は少しペースを上げて歩き始めた。別に怖がるようなことじゃない、ただの地元民か、夜道を歩く酔っ払いだろう。そう自分に言い聞かせた。

だが、歩けど歩けど、その足音は俺の背後にまとわりつくように聞こえてくる。距離は一定のまま、決して離れない。俺が速く歩けばその分速くなり、立ち止まれば一瞬遅れて止まる。不思議なことに、その音は俺の靴が地面を叩く音とは微妙にズレていた。まるで、俺の歩調に合わせながらも、少しだけ遅れて追ってくるような感覚だ。

気味が悪くなった俺は、もう一度振り返ってライトを振り回してみた。だが、やっぱり何もいない。木々の間から風が吹き抜ける音と、遠くの川のせせらぎだけが聞こえる。それでも、耳を澄ませば確かに聞こえるのだ。カツ、カツ、カツ……。その音は、俺が動かなくても、どこか遠くで微かに響いているような気がした。

その時、ふと気づいた。足音が一つじゃない。よく聞くと、二つのリズムが混ざっている。一つは硬い靴底が地面を叩くような鋭い音。もう一つは、裸足で湿った土を踏むような、鈍くて柔らかい音だ。俺の背筋に冷たいものが走った。こんな夜更けに、山道を歩く人間が二人もいるはずがない。それに、裸足で歩くなんてあり得ない。

俺は走り出した。スマホのライトを手に持ったまま、息を切らして集落を目指した。足音は一瞬途切れたように思えたが、すぐにまた聞こえ始めた。今度は明らかに速くなっている。カツ、カツ、カツ……。そして、ペタ、ペタ、ペタ……。二つの音が俺を追いかけるように響き、まるで競い合うように近づいてくる。心臓がバクバクして、汗が額から流れ落ちた。

どれだけ走ったかわからない。息が上がって足がもつれそうになった頃、ようやく集落の明かりが見えてきた。そこからはもう必死だった。人家の近くまで来ると、足音はピタリと止んだ。振り返る勇気はなかったが、背後に感じていたあの気配が消えたのは確かだった。俺は膝に手を突いて、荒い息を整えた。全身が汗でびっしょりだった。

家に着いて、落ち着いてから考えてみた。あれは何だったのか。地元の人間なら、車で移動するのが普通だ。ましてや裸足で歩くなんて考えられない。動物にしてはあまりにも人間らしい足音だった。それに、俺が走った距離を考えれば、普通の人間なら追いつけないはずだ。

後日、近所のおばさんにその話をしてみた。すると、おばさんは少し顔を曇らせてこう言った。「あんた、あの道を夜に歩いたの? あそこは昔、事故があった場所なんだよ。詳しくは言わないけど、二人連れの幽霊が出るって噂があるんだ。気をつけなよ。」

それ以来、俺は夜にあの道を通ることは絶対にしないと誓った。でも、時々思う。あの足音は、本当に幽霊だったのか。それとも、俺の恐怖心が作り出した幻聴だったのか。どちらにせよ、あの夜の記憶は、今でも夢に見るたびに背筋が凍る。あの二つの足音が、また俺を追いかけてくるような気がして、夜中に目を覚ますことがある。

今でも、山の風が強くなる夜には、あの音が聞こえてくるような錯覚に襲われる。カツ、カツ、カツ……ペタ、ペタ、ペタ……。そして、どこかで誰かが俺を見ているような、そんな気配を感じるのだ。

タイトルとURLをコピーしました