山間の村にひっそりと佇む小さな集落。そこは、明治の頃から変わらぬ風景が広がり、時が止まったかのような静寂に包まれていた。
その集落に住む少女は、ある夏の夕暮れ、母から不思議な話を聞かされた。『夜の森には決して近づくな。あそこには昔、子を亡くした女が彷徨っていて、子守唄を歌う声が聞こえる。だが、その歌を耳にした者は、二度と帰ってこられない』と。少女は半信半疑だったが、母の真剣な眼差しにどこか背筋が冷たくなるのを感じた。
数日後のこと。少女は友達と共に、村外れの森に続く小道で遊んでいた。日はすでに傾き、風が木々の間を抜ける音が不気味に響き始めていた。友達の一人がふざけて言った。『あの森に行ってみようよ。子守唄の女なんているわけないさ』。他の子たちも笑いものだと言わんばかりに賛同し、少女も流されるままに森へと足を踏み入れた。
森の中は薄暗く、足元に絡みつく草がまるで何かに引き込もうとしているかのようだった。しばらく進むと、どこからともなく微かな歌声が聞こえてきた。『ねんねんころりよ、おころりよ…』。それは優しく、しかしどこか寂しげな子守唄だった。友達たちは驚きつつも面白がって声のする方へ近づいたが、少女だけは立ちすくんでいた。母の警告が頭をよぎり、膝が震え始めたのだ。
歌声は次第に大きくなり、木々の間から白い着物をまとった女が姿を現した。長い髪が顔を覆い、その表情は見えない。だが、彼女の手には小さな人形が握られていた。それは赤子を抱くように揺らされ、子守唄に合わせて不自然に動いているように見えた。友達たちは最初、驚きながらも笑っていたが、女が一歩近づくたびにその笑顔が凍りついていった。
『逃げて!』少女が叫んだ瞬間、友達の一人が女の方へ吸い寄せられるように歩き出した。まるで操られているかのように、目は虚ろで、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。他の子たちも次々とその場に立ち尽くし、動けなくなった。少女は必死に走り出し、森の出口を目指した。背後では子守唄がますます高まり、友達の声が遠くで呻くように聞こえた。
なんとか村に戻った少女は、泣きながら母に全てを話した。母は顔を青ざめ、すぐに村の古老たちを集めた。彼らは森にまつわる古い言い伝えを知っていた。かつて、その森で子を亡くした女が自ら命を絶ち、以来、子守唄を歌いながら子を探し続けているという。彼女に魅入られた者は魂を奪われ、二度と戻れないのだと。
翌朝、村人たちが恐る恐る森へ向かったが、友達たちの姿はどこにもなかった。ただ、森の奥深くで子守唄がこだまし、小さな足跡だけが残されていた。少女はその日から毎夜、夢の中で友達の笑顔と子守唄を聞き、目を覚ますたびに冷や汗にまみれていた。
月日が流れ、村は次第に寂れていった。だが、少女が老婆となったある夜、再びあの森の近くを通りかかった時、遠くから子守唄が聞こえてきた。驚くべきことに、それはかつての友達の声に似ていた。老婆は立ち止まり、闇の中を見つめた。すると、木々の間から複数の影が揺れ動き、こちらを見ているように感じられた。その影たちは、まるで少女時代に失った友達たちがそこにいるかのようだった。
老婆は震える足で一歩踏み出したが、その瞬間、風が急に強まり、子守唄が耳元で囁くように響いた。『ねんねんころりよ…』。彼女は思わず目を閉じ、次の瞬間、村人たちが彼女を探しに来た時には、老婆の姿は消えていた。残されたのは、森へと続く道に落ちた一本の草鞋だけ。
それ以降、村では誰も森に近づかなくなった。だが、静かな夜になると、遠くから子守唄が聞こえ、時折、子供たちの笑い声が混じるという。村人たちは口々に囁き合った。『あの子たちはずっとそこにいるんだよ。そして、新しい友達を待っているんだ』と。
今でも、その森の近くを通る者は、風の中に紛れた子守唄を耳にすることがあるという。その声は優しく、懐かしく、そして底知れぬ恐怖を呼び起こす。あなたがもし、夜の森でその歌を聞いたなら、決して振り返ってはいけない。振り返れば、そこにはあなたを待つ影が、静かに笑みを浮かべているかもしれないのだから。