それは、ある静かな秋の夜のことだった。
埼玉県の郊外に位置する小さな町。そこに住む高校生の少年は、学校帰りに近道を通るため、普段はあまり人が寄りつかない裏道を選んだ。夕暮れ時、薄暗いオレンジ色の空が木々の間から漏れ、風が枯れ葉をカサカサと鳴らす中、彼は足早に歩いていた。
その道は、古びた住宅街の裏手を抜ける細い路地で、ところどころに錆びた街灯が立っているだけだった。少年はイヤホンから流れる音楽に合わせて歩調を合わせていたが、ふと異変に気づいた。いつもなら聞こえる近所の犬の鳴き声や、遠くの車の音が一切聞こえない。静寂があまりにも不自然で、彼はイヤホンを外して周囲を見回した。
すると、視界の端に何か奇妙なものが見えた。路地の奥、普段ならただのブロック塀が続くはずの場所に、古びた木製の扉が立っていた。少年は目を疑った。そんな扉はこれまで一度も見たことがなかった。苔むした木枠に、黒ずんだ取っ手が付いたその扉は、まるでずっとそこにあったかのように風景に溶け込んでいた。
好奇心に駆られた少年は、恐る恐る近づいた。扉の表面には奇妙な模様が彫られており、触れると冷たく湿った感触が指先に伝わった。すると突然、ガタッと音がして、扉がひとりでに開き始めた。驚いた少年は後ずさったが、開いた隙間から漏れ出る薄暗い光に目を奪われた。そこには、見たこともない風景が広がっていた。
扉の向こうは、灰色の霧に包まれた森だった。木々は異様にねじれ、枝はまるで何かを掴もうとするかのように空を覆っていた。遠くからは、低く唸るような音が聞こえてくる。少年の心臓は激しく鼓動し、逃げ出したい衝動に駆られたが、なぜか足が動かない。まるで何かに引き寄せられているようだった。
その時、霧の中から人影が現れた。いや、人影と呼ぶにはあまりにも不自然だった。それは背が高く、異様に細長いシルエットで、顔らしき部分には目も鼻も口もなかった。ただ黒い空白があるだけだ。少年は息を呑み、恐怖で声も出せなかった。影はゆっくりと近づいてくる。そして、その手らしきものが少年の方へ伸びた瞬間、彼はようやく体が動くのを感じ、必死に走り出した。
どれだけ走ったかわからない。息が切れ、足がもつれる中、少年はなんとか自宅にたどり着いた。部屋に飛び込み、ドアを閉めると、震える手でカーテンを引いた。外を見ると、いつも通りの町並みが広がっている。さっきの出来事が夢だったのかと疑ったが、体にまとわりつく冷や汗と、異様な森の匂いが鼻に残っていることが現実を突きつけた。
翌日、少年は再びその路地を通る勇気はなかったが、気になって昼間に遠くから様子を見に行った。しかし、そこには扉などなく、ただのブロック塀が続いているだけだった。まるで昨夜の出来事が幻だったかのように。
それから数日が経ち、少年は少しずつ平静を取り戻していた。だが、ある夜、眠りに落ちる直前に異変が起きた。閉めたはずの窓が微かに開いており、カーテンが風もないのに揺れている。そして、部屋の隅に、あの細長い影が立っていた。顔のないその存在は、じっと少年を見つめているようだった。少年は布団をかぶり、目を閉じて祈るしかなかった。
翌朝、目を覚ますと影は消えていたが、枕元に小さな木片が置かれていた。苔むし、湿った感触のその木片は、あの扉と同じ匂いを放っていた。少年は恐怖に震えながらも、誰にもこのことを話せなかった。家族や友人に話したところで信じてもらえないだろうし、何より、あの影がまた現れるのではないかという恐怖が彼を縛った。
それからというもの、少年の日常は少しずつおかしくなっていった。夜になると、どこからか低く唸る音が聞こえ、窓の外には時折あの影がちらつくようになった。学校でも、誰もいない教室の隅にその存在を感じることがあり、友達と笑い合っている時でさえ、背後に冷たい視線を感じた。
ある日、少年は決意した。このままでは正気を失うと思い、あの路地にもう一度行ってみることにした。昼間なら大丈夫だろうと自分を励まし、意を決してその場所へ向かった。案の定、ブロック塀しかない。だが、よく見ると、塀の一角に小さなひび割れがあり、そこからかすかに冷たい風が吹き出ていた。少年は震える手でそのひび割れに触れた瞬間、体が一瞬宙に浮いたような感覚に襲われた。
目を開けると、そこは再びあの森だった。灰色の霧、ねじれた木々、そして遠くから聞こえる唸り声。少年は絶望に打ちひしがれた。逃げようとしても、足元は泥のように重く、思うように動けない。そして、霧の中からあの影が再び現れた。今度は一つではなく、複数の影がゆっくりと近づいてくる。顔のない空白が、まるで少年の魂を吸い込むかのようにこちらを見つめていた。
少年は叫び声を上げたが、声は森に吸い込まれ、誰にも届かなかった。影の手が彼に触れた瞬間、全身が凍りつくような冷たさに包まれた。そして、意識が遠のく中、彼は最後に見たものを覚えている。それは、影の背後に広がる無数の扉だった。どれもが苔むし、古びた木製の扉で、それぞれがどこか別の場所へ続いているようだった。
少年はその後、忽然と姿を消した。家族は必死に捜索したが、手がかりすら見つからなかった。ただ、彼の部屋に残された木片だけが、唯一の証拠としてそこにあった。町の人々は、少年がどこかへ家出をしたのだろうと噂し、やがてその事件は忘れ去られた。
だが、それから数年後、同じ町で別の子供が行方不明になった。その子が最後に見られた場所は、あの路地の近くだった。そして、その子の部屋にもまた、小さな木片が残されていたという。町の古老は囁く。あの裏道には、昔から何か得体の知れないものが出るという噂があったと。だが、誰もその真相を知ることはなく、ただ静かに時間が流れていくだけだった。
今でも、埼玉県のその小さな町の裏道を通る者の中には、妙な気配を感じる人がいるという。風のない夜にカサカサと葉が鳴り、遠くから低く唸る音が聞こえる。そして、視界の端に、どこからともなく現れる古びた扉を目撃した者もいる。だが、それを口にする者は少ない。なぜなら、その扉の向こうに何があるのか、知るのが怖いからだ。