数年前、私は友人と共に神奈川県の山奥にある廃墟を訪れた。そこはかつて病院として使われていた建物で、長い間放置され、朽ち果てた姿が不気味さを漂わせていた。地元では「入った者は必ず何かを見てしまう」と言われる場所だったが、私たちは好奇心に負けてその噂を確かめに行ったのだ。
その日は曇天で、空は重苦しい灰色に覆われていた。午後遅くに現地に到着した私たちは、錆びついた鉄柵を乗り越え、敷地内へと足を踏み入れた。建物の外観は想像以上に荒れ果てており、割れた窓ガラスが風に揺れ、軋む音を立てていた。友人はカメラを手に持つと、廃墟の雰囲気を記録しようとシャッターを切り始めた。私は少し離れた場所で、敷地内の雑草に埋もれた古い看板を見つけた。文字はほとんど剥げ落ちていたが、辛うじて「診察室」と読めた。
「何か撮れたら面白いな」と友人が笑いながら言ったが、その声にはどこか緊張が混じっていた。私たちは意を決して建物の中へ入った。内部は薄暗く、埃とカビの臭いが鼻をついた。足元には壊れた椅子や古いカルテが散乱し、壁には黒ずんだ染みが不気味な模様を描いていた。懐中電灯の光を頼りに進むと、長い廊下が目の前に伸びていた。両側には閉ざされた扉が並び、時折どこからか水滴が落ちる音が響いた。
最初のうちは好奇心が恐怖を上回っていたが、次第に異様な雰囲気が私たちを包み始めた。友人が「何か聞こえない?」と小声で尋ねてきた。私は耳を澄ませたが、風が窓を叩く音以外に何も聞こえなかった。「気のせいだよ」と答えたものの、私の心臓は少しずつ速く鼓動を刻み始めていた。
一階を一通り探索した後、私たちは二階へと続く階段を見つけた。木製の手すりは腐りかけ、足を乗せるたびにギシギシと不快な音を立てた。二階に上がると、そこは更に荒廃が進んでいた。剥がれた壁紙が垂れ下がり、天井からは何か黒い液体が染み出しているようだった。友人が「ここ、ヤバい雰囲気だな」と呟いた瞬間、遠くからかすかな音が聞こえた。それは人の声のようだった。
「誰かいるのか?」私は反射的に声を上げたが、返事はない。友人と顔を見合わせた瞬間、再びその声が響いた。今度ははっきりと、「助けて……」という言葉が聞こえた。声は弱々しく、どこか遠くから届くようだった。私たちの背筋が凍りついた。廃墟に他の人がいるはずがない。この建物は長年放置され、地元民さえ近づかない場所だと聞いていたのだ。
「帰ろう」と友人が震える声で言ったが、私はなぜかその声の主を探したい衝動に駆られた。「ちょっとだけ見てくる」と言い、懐中電灯を手に持つと声の方向へ進んだ。友人は渋々ついてきたが、その表情は明らかに怯えていた。廊下の突き当たりに近づくにつれ、声は少しずつ大きくなった。「助けて……助けて……」と繰り返すその声は、まるで私たちを呼んでいるようだった。
突き当たりには古びた扉があった。錆びた蝶番が軋む音を立てながら、私はゆっくりと扉を開けた。中は小さな部屋で、中央に古いベッドが置かれていた。シーツは汚れきっており、部屋全体に異様な臭いが漂っていた。そしてその瞬間、声が止んだ。静寂が部屋を支配し、私たちの呼吸音だけが響いた。
「何もいないじゃん」と友人が安堵の息をついた時、背後でガタンという音がした。振り返ると、扉が勝手に閉まっていた。風もないのにだ。私は慌てて扉に駆け寄り、ノブを回したが、固く閉ざされたまま動かない。「おい、どうなってんだよ!」友人が叫びながら扉を叩いたが、状況は変わらない。その時、部屋の隅から再び声が聞こえた。「ここにいるよ……」
懐中電灯を向けると、ベッドの下に何か黒い影が見えた。それはゆっくりと這い出し、私たちの方へ近づいてきた。人の形をしていたが、顔は真っ黒で目も鼻も口もなかった。ただ、黒い影が蠢くだけだ。私は悲鳴を上げ、友人と共に扉を叩いた。影はますます近づき、その冷たい気配が足元にまとわりつくようだった。
どれだけ時間が経ったのか分からない。必死に扉を叩き続けていると、突然ガチャリと音がして扉が開いた。私たちは転がるように外へ飛び出し、階段を駆け下り、廃墟の外へ逃げ出した。振り返る勇気もなく、ただひたすら車まで走った。車に乗り込み、エンジンをかけた瞬間、友人が震える手でカメラを手に持った。「撮れてた……」と呟きながら画面を見せると、そこには部屋の写真が映っていた。だが、私たちが立っていたはずの場所に、黒い人影が写り込んでいた。
それ以来、私は廃墟に近づくことはもちろん、その話をすることも避けてきた。だが、夜中に目が覚めると、時折あの声が耳元で響くことがある。「助けて……」と。今でもあの廃墟がどこかに存在し、私を待っているような気がしてならない。