それは、数年前の秋の夜だった。
私は埼玉県の郊外に住む会社員で、その日は残業で遅くなった。終電を逃し、タクシーを使うほどでもない距離だったので、最寄りのバス停から深夜バスに乗ることにした。時刻はすでに午前1時を回っていた。秋風が冷たく、街灯の光が薄暗いバス停に届くか届かないかの距離で揺れている。バス停には私以外誰もおらず、ただ静寂が広がっていた。
バスが来るまであと15分ほど。スマホをいじりながら時間を潰していると、遠くから何か音が聞こえてきた。最初は風が木々を揺らす音かと思ったが、次第にそれが規則的なリズムを刻んでいることに気づいた。
カツン、カツン、カツン。
足音だ。誰かがこちらに向かって歩いてくる。暗闇の中、音は徐々に近づいてくるが、姿は見えない。街灯の光が届かない道の奥から響いてくるその音に、私は少しずつ不安を感じ始めた。こんな時間にこんな場所を歩く人がいるとは思えない。だが、ただの通りすがりだろうと自分を落ち着かせた。
カツン、カツン、カツン。
足音はさらに近づき、今度はバス停のすぐ近くまで来ているようだった。私は顔を上げ、音のする方向を見た。だが、そこには誰もいない。街灯の下も、道の両脇の茂みも、何も動くものは見当たらない。それでも足音は止まらない。
カツン、カツン、カツン。
今度は私の背後から聞こえてきた。私は振り返ったが、やはり何もない。風が強くなったのか、木の葉がざわめき、少しだけ心が落ち着いた瞬間だった。しかし、そのざわめきの中で、足音が一瞬途切れ、再び響き始めたとき、私は背筋が凍るのを感じた。
カツン、カツン……カツン。
そのリズムが微妙に乱れている。まるで何かが私の周りをぐるぐると回っているような感覚だった。息を殺して耳を澄ますと、足音が一時的に遠ざかり、また近づいてくる。私は思わず立ち上がり、バス停のベンチから数歩離れて周囲を見回した。だが、視界には何も映らない。ただ、音だけがそこにある。
そのとき、遠くにバスのヘッドライトが見えた。安堵の息をつきながら、私はバス停に戻ろうとした。しかし、足を踏み出した瞬間、背後で何かが動く気配を感じた。振り向く勇気はなかったが、首筋に冷たい風とは違う何かが触れた気がした。ゾッとして足早にバス停に戻り、バスの扉が開くのを待った。
バスに乗り込むと、運転手が眠そうな目で私を見た。「こんな時間まで大変だね」と一言。私はただ頷き、席に座った。バスが動き出すと、私は窓の外を見た。バス停のベンチの横に、ぼんやりとした人影が立っているように見えた。街灯の光に照らされず、ただ暗闇に浮かんでいるようなその影は、私がバスに乗ったことを見届けるようにじっとしていた。
次の日、会社の同僚にその話をすると、彼は顔を曇らせた。「そのバス停、昔事故があったんだよ。夜中に女の人がバスを待ってて、車に轢かれたって。以来、妙な噂があるんだよね」。私は笑ってその話を流そうとしたが、心のどこかで昨夜の足音が頭から離れなかった。
それからしばらくして、私はまた同じバス停を使う機会があった。今回は早い時間だったが、念のためイヤホンで音楽を流しながら待った。すると、またあの音が聞こえてきた。
カツン、カツン、カツン。
イヤホンを外しても、音は消えない。今回ははっきりと、バス停のすぐ横から聞こえてくる。私は恐怖に耐えきれず、走ってその場を離れた。後ろを振り返ることはできなかったが、足音が追いかけてくるような錯覚に襲われた。
それ以来、私はそのバス停を使うのをやめた。だが、今でもあの足音が耳に残っている。夜中に目を覚ますと、遠くからカツン、カツンという音が聞こえてくる気がして、布団の中で息を殺すことが何度もある。あの夜、何かに見つかってしまったのかもしれない。そんな恐怖が、私の心の奥底に根を張って離れない。