それは、ある静かな夜のことだった。
私は石川県の山奥にある小さな集落へと向かっていた。車一台がやっと通れるほどの細い道を、ヘッドライトだけを頼りに進む。両側には深い森が広がり、時折、風に揺れる木々の音が不気味に響く。助手席には誰もいない。ただ、荷物を詰めた古いバックパックが無造作に置かれているだけだ。仕事の都合でこの辺りに来ることは何度かあったが、こんな遅い時間にこの道を通るのは初めてだった。
時計はすでに深夜を回っていた。携帯の電波は途切れ、ナビも役に立たない。頼りになるのは、道端にたまに現れる錆びた標識だけだ。疲れが溜まっていた私は、少しでも早く目的地に着きたい一心でアクセルを踏み込んだ。すると、突然、車のスピーカーからノイズが鳴り始めた。ラジオはつけていない。機械の故障かと思い、気にも留めず運転を続けた。
しばらくすると、遠くから何かが聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは人の声のように感じられた。低く、くぐもった声が、どこからともなく響いてくる。私は耳を澄ませたが、言葉は聞き取れない。ただ、誰かが呻いているような、苦しげな響きが空気を震わせていた。背筋が冷たくなり、私は思わずスピードを緩めた。
その時、ヘッドライトの先に何かが見えた。道の真ん中に、ぼんやりと白い影が立っている。私は慌ててブレーキを踏んだ。タイヤが地面を擦る音が夜の静寂を切り裂き、車が急停止した。心臓が激しく鼓動する中、私は目を凝らしてその影を見つめた。それは、ぼろぼろの服を着た女の姿だった。長い髪が顔を覆い、表情は見えない。彼女はただじっとそこに立っていた。
「大丈夫ですか?」
私は窓を少し開けて声をかけたが、返事はない。彼女は微動だにせず、私の方を見ているのかさえわからない。不気味さに耐えきれず、私はクラクションを鳴らした。すると、彼女の体がゆっくりと動き始めた。首が不自然な角度に傾き、まるで糸で吊られた人形のようだった。そして、次の瞬間、彼女の口から声が漏れた。
「…こっち…こっちへ…」
その声は、先ほど遠くで聞こえたものと同じだった。低く、掠れた声が私の耳に直接流れ込んでくるような感覚に襲われた。私は恐怖で体が硬直し、動けなくなった。彼女は一歩、また一歩と近づいてくる。足音はしない。ただ、彼女の体が不気味に揺れながらこちらへ進んでくるだけだ。
慌ててエンジンをかけ直し、私は車をバックさせた。彼女の姿がヘッドライトから消えるまで、私はひたすら後退した。ようやく安全な距離を取ったと思った瞬間、車の窓を叩く音がした。驚いて振り返ると、そこには誰もいない。だが、窓ガラスには小さな手形がいくつも残されていた。濡れたような跡が、まるで誰かが必死に私を呼び止めようとしたかのように広がっていた。
その後も、道中ずっとあの声が聞こえ続けた。「こっちへ…こっちへ…」と繰り返すその響きは、頭の中を離れなかった。私は必死にアクセルを踏み、なんとか集落にたどり着いた。車を降りた瞬間、全身が震えていた。集落の明かりに安心したのも束の間、近くの民家の老婆が私に近づいてきた。
「こんな時間にこんな道を通るなんて珍しいねぇ。気をつけなよ。あの道にはね、昔、行方不明になった女が彷徨ってるって言うんだよ。山で遭難したまま、誰にも見つけてもらえなかったんだってさ。夜になると、助けを求めて道に出てくるらしいよ…」
老婆の言葉を聞いて、私は言葉を失った。あの白い影、あの声。まさかそんなことが現実にあるなんて。老婆は私の顔を見て、にやりと笑った。
「でもね、あんたが無事にここまで来れたなら、もう大丈夫さ。あの女はね、道に迷った人を自分のところに引きずり込もうとするだけだから。気をつけて帰りなよ。」
その夜、私は集落の宿で眠ることができたが、目を閉じるたびに彼女の姿が浮かんだ。翌朝、車に戻ると、窓の手形は消えていた。だが、助手席に置いていたバックパックが少し濡れていることに気づいた。中を開けると、なぜか土の匂いがした。どこかで誰かが私の荷物に触れたのだろうか。それとも、あの女が…。
それ以来、私は二度とあの道を通っていない。だが、時折、静かな夜に耳を澄ますと、遠くからあの声が聞こえてくる気がする。「こっちへ…こっちへ…」と、私を呼ぶ声が。今でも、あの夜のことを思い出すと、全身が冷たくなる。あの山道には、何か得体の知れないものが潜んでいる。私はそう確信している。