それは、今から20年程前のことだ。
茨城県の山奥にひっそりと佇む集落に、私は引っ越してきた。大学を卒業し、就職を機に新たな生活を始めたばかりだった。都会の喧騒から離れ、静かな田舎暮らしに憧れていた私は、この場所に運命的な魅力を感じていた。集落は古びた家屋が点在し、時間が止まったような雰囲気を漂わせていた。特に目を引いたのは、集落の外れに建つ小さな社だった。苔むした石段を登ると、風化した木造の祠が現れる。地元の人々は「あそこには近づかない方がいい」と口を揃えて言ったが、私はその警告を軽く聞き流していた。
引っ越して数日後の夜、奇妙なことが起こり始めた。深夜、窓の外からかすかな声が聞こえてくるのだ。最初は風の音か、あるいは近所の誰かが話しているのかと思った。しかし、その声は夜が深まるにつれてはっきりと聞こえるようになり、私の名を呼んでいるように感じた。「お前…ここに…いるのか…」と、低く掠れた声が繰り返す。窓を開けて外を確認しても、誰もいない。ただ、暗闇に沈む木々の間から、冷たい風が吹き抜けるだけだった。
その声は毎夜のように続き、次第に私の精神を蝕んでいった。眠れない夜が続き、仕事にも影響が出始めた。ある晩、とうとう我慢の限界に達した私は、懐中電灯を手に家の外へ出た。声の源を探るためだ。冷たい夜気に震えながら歩いていると、足が自然とあの社の方向へ向かっていた。まるで何かに導かれるように。
社の前まで辿り着くと、懐中電灯の光が祠の入り口を照らし出した。すると、そこには誰もいないはずなのに、影が揺れている。心臓が跳ね上がり、息を呑んだ瞬間、背後から再びあの声が聞こえた。「お前…ここに…来たか…」。振り返ると、誰もいない。しかし、視界の端に何か黒い人影のようなものが動いた気がした。恐怖に駆られた私は、懐中電灯を落とし、その場から逃げ出した。
翌日、集落の古老にその話をすると、彼は顔を曇らせてこう語った。「その社はな、昔、村を見守る神様を祀っていたんだ。だが、ある時、村人が神を怒らせてしまってな…それ以来、祠に近づく者は皆、不思議な目に遭うって言われてる。お前さんも気をつけな」。彼の言葉に背筋が凍りついたが、私は半信半疑だった。科学的な思考を持つ私には、そんな迷信じみた話は受け入れがたかった。
それでも、声は止まなかった。むしろ、夜ごとにその音量は増し、時には複数の声が重なり合って聞こえるようになった。「お前…逃げられない…」「ここに…いろ…」。耐えきれなくなった私は、ある夜、意を決して再び社へ向かった。今度は昼間に古老から聞いた話を確かめるため、祠の中を調べるつもりだった。
昼下がりの薄暗い光の中、私は社の石段を登った。祠の扉は半開きで、中からは異様な臭いが漂ってくる。カビと土、そして何か腐ったような匂いだ。懐中電灯を手に中を覗くと、そこには古びた木像が安置されていた。顔のないその像は、長い年月で風化し、異様な雰囲気を放っていた。だが、それよりも私の目を引いたのは、像の足元に散らばる小さな骨だった。鳥か、小動物のものだろうか。いや、それにしては数が多すぎる。
その時、背後でガサッと音がした。振り返ると、木々の間に何か黒い影が立っている。人の形をしているが、顔は見えない。恐怖で足がすくむ中、その影がゆっくりと近づいてきた。私は叫び声を上げて逃げようとしたが、足が石段に引っかかり転倒してしまった。顔を上げると、影はすぐ目の前に立っていた。顔がないはずなのに、なぜかその視線を感じる。そして、低い声が耳元で囁いた。「お前…ここに…残れ…」。
次の瞬間、私の意識は途切れた。
目が覚めた時、私は自宅の布団の中にいた。夢だったのか? いや、腕には石段で擦りむいた傷が残っている。あの出来事が現実だった証拠だ。それからというもの、私は毎夜のように悪夢にうなされるようになった。夢の中で、社の前に立つ黒い影が私を見つめ、こう繰り返すのだ。「お前は…逃げられない…」。現実でも、家の周りで不思議な音が聞こえることが増えた。足音、囁き声、そして時折、窓ガラスを叩く音。誰かに見られているような感覚が消えない。
ある日、仕事から帰宅すると、部屋の雰囲気がおかしかった。机の上に置いていたはずの物が床に落ち、窓が僅かに開いている。私は確信した。何かがこの家に入り込んでいるのだ。そして、その夜、ついにその姿をはっきりと見た。寝室の窓の外に、黒い影が立っていた。顔はないのに、私をじっと見つめている。その瞬間、部屋の中からあの声が響いた。「お前…ここに…いろ…」。
私は叫び声を上げ、部屋を飛び出した。近隣の家に助けを求めたが、誰も信じてくれなかった。警察に相談しても「証拠がない」と取り合ってもらえない。それでも、私はあの家に戻る気にはなれなかった。結局、荷物をまとめて集落を離れることを決意した。
引っ越し当日、最後に家を見回っていると、床に小さな紙切れが落ちているのに気づいた。拾い上げると、そこには震えるような文字でこう書かれていた。「お前は逃げられない」。背後でガタッと音がし、振り返ると誰もいない。だが、窓の外に黒い影が立っているのが見えた。私は荷物を放り出し、車に飛び乗ってその場を後にした。
新しい町に移ってからも、あの恐怖は消えない。夜になると、どこからともなくあの声が聞こえてくる。「お前…どこに…いても…」。私は今でも思う。あの社は、ただの古びた祠ではなかった。何か得体の知れないものが、そこに棲みついていたのだ。そして、それは私を決して手放さない。
今夜もまた、窓の外からかすかな声が聞こえる。私は目を閉じ、布団をかぶって震えるしかない。