闇に蠢く異形の足音

モンスターホラー

栃木県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに暮らす人々は、昔から奇妙な言い伝えを守り続けていた。『夜道を一人で歩くな。山の奥から何かが来る』。子供の頃、祖母から何度も聞かされたその言葉を、私はただの迷信だと笑いものにしていた。あの夜までは。

今から10年程前、私は大学を卒業したばかりで、地元に戻って就職活動をしていた。実家は集落の外れにあり、夜になると辺りは深い闇に包まれる。ある晩、友人と町で飲んだ帰り、終バスを逃してしまった私は、仕方なく山道を歩いて帰ることにした。時計はすでに23時を回っていた。

冷たい風が木々を揺らし、遠くでフクロウの鳴き声が響く。懐中電灯の明かりを頼りに、舗装されていない道を進む。すると、背後から何か重いものが地面を叩く音が聞こえてきた。ドン、ドン、ドン。一定のリズムで、まるで何かが歩いているかのように。私は振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、風に揺れる木の影だけが蠢いていた。

「気のせいだ」と自分に言い聞かせ、歩を速めた。しかし、その音はどんどん近づいてくる。ドン、ドン、ドン。心臓が早鐘を打ち、汗が背中を伝う。私は走り出した。すると、音もまた速さを増し、まるで私を追いかけるように迫ってきた。息が上がり、足がもつれそうになる中、ようやく家の明かりが見えた。玄関に飛び込み、鍵をかけた瞬間、音がピタリと止んだ。

翌朝、母にその話をすると、彼女は顔を青ざめ、「あれに会ったのか」と呟いた。母によると、山の奥には古くから『何か』が住んでいて、夜道で出会った者を追い詰めるのだという。それは人間ではない。長い腕と異様に大きな足を持ち、闇の中を這うように動く怪物だと語った。私は笑いものにしようとしたが、母の真剣な表情に言葉を失った。

それから数日後、私は家の裏にある小さな倉庫を片付けていた。そこに、埃をかぶった古い箱を見つけた。中には祖父が残した日記が入っていた。好奇心からページをめくると、ある一節に目が止まった。

『夜、山道で見た。あの足音が近づいてくる。逃げても逃げても追ってくる。長い腕が木の間から伸び、地面を叩く。顔は見えなかったが、目だけが闇の中で光っていた。あれは人間じゃない。もう山には近づかない』

背筋が凍った。祖父が書いたその日付は、私が生まれる前のものだった。同じ体験が、世代を超えて繰り返されているのか。私は震える手で日記を閉じ、倉庫を出た。外に出ると、遠くの山から低い唸り声のような音が聞こえてきた気がした。

それ以来、私は夜に外に出ることを極端に避けるようになった。だが、ある夜、仕事で遅くなり、仕方なく車で帰宅する途中だった。山道を走っていると、突然ヘッドライトに何かが映った。一瞬だったが、それは異様に長い腕と、地面を引きずるような大きな足を持つ影だった。車を急停車させ、後ろを振り返ったが、そこには何もなかった。ただ、静寂の中で、ドン、ドン、ドンという音が遠くから聞こえてきた。

次の日、私は近所のおじいさんにその話を聞いてみた。彼は目を細め、「あれは山の主だよ」と静かに言った。「昔からいる。人間が山に入りすぎると出てくる。昔はもっとひどかった。村の若者が何人も姿を消したこともある。あれに捕まると、二度と戻れない」。おじいさんの言葉には、どこか諦めたような響きがあった。

その話を聞いてから、私は山を見ることが怖くなった。昼間でも、山の稜線に何か黒い影が動いているような錯覚に襲われるようになった。そして、ある嵐の夜、私は最悪の体験をした。

雷鳴が轟き、雨が窓を叩く中、私はリビングで本を読んでいた。すると、外からあの音が聞こえてきた。ドン、ドン、ドン。今度は遠くではなく、家のすぐ近くからだ。私は立ち上がり、カーテンをそっと開けた。そこには、雨に濡れた庭に立つ何かがあった。背が高く、長い腕が地面に垂れ下がり、大きな足が泥に沈んでいる。顔は見えない。ただ、闇の中で二つの目が、赤く光っていた。

私は息を呑み、カーテンを閉めた。心臓が喉から飛び出しそうだった。音は家の周りを回るように続き、時折窓ガラスを叩くような音が混じる。私は電話を手に持ったが、誰に助けを求めればいいのか分からない。警察に言っても信じてもらえないだろう。音は一時間以上続き、やがて遠ざかっていった。朝が来るまで、私は一睡もできなかった。

翌朝、庭を見ると、大きな足跡がいくつも残っていた。人間のものではない、異様に長い指先を持つ足跡だった。私はその日から、家を出る決意をした。こんな場所に住み続けるのは耐えられない。引っ越しの準備を進めている間も、夜になると遠くからあの音が聞こえてくることがあった。ドン、ドン、ドン。私を見送るように、あるいは新たな獲物を探すように。

引っ越した後、私は都会で暮らしている。今はあの音を聞くことはない。だが、時折、夢の中であの赤い目と足音が蘇る。栃木の山奥に残してきた何かは、今もそこにいて、夜道を歩く者を待ち続けているのかもしれない。そして、私が逃げ出したことを、どこかで嘲笑っているのかもしれない。

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