沖縄の南端に位置する小さな集落。そこに住む私の叔母は、昔から霊感が強いと言われていた。20年ほど前、私がまだ高校生だった頃、夏休みを利用して叔母の家に遊びに行った時のことだ。
その集落は、海に面した小さな平屋が点在し、昼間は穏やかな潮風が吹き抜ける場所だった。しかし夜になると、空気が一変する。湿気を含んだ重たい風が家々の隙間を縫い、どこからともなく低い唸り声のような音が聞こえてくる。叔母はそれを「海の声」と呼んでいたが、私にはただの風とは思えなかった。
ある晩、叔母の家で夕食を終えた後、私は縁側に座って涼んでいた。月明かりが庭を照らし、遠くで波が打ち寄せる音が響く。すると、庭の隅に植えられたガジュマルの木の影が、ゆっくりと揺れ始めた。風はない。なのに、その影はまるで生き物のようにうねり、這うように動いているように見えた。私は目を凝らした。影は次第に形を変え、細長い腕のようなものと、蹲る人のような姿に変わっていく。
「叔母さん、あれ見て!」
慌てて家の中に駆け込み、叔母を呼んだ。叔母は縁側に出てきて、私が指差す方向を見た。だが、彼女の顔はみるみる青ざめ、すぐに私を家の中に引き戻した。
「見ちゃダメ。あれは『カナシバリ』よ。あんたがここにいるって気付かれたら、連れてかれるよ」
叔母の声は震えていた。カナシバリ。沖縄で語り継がれる悪霊の一種だ。生きた人間に取り憑き、魂を奪うと言われている。私は叔母の言葉に背筋が凍りついたが、同時に好奇心も湧いてきた。窓の隙間からそっと外を覗くと、影はまだそこにあった。今度はこちらを向いているように見えた。目はないはずなのに、じっと私を見つめているような感覚がした。
その夜、私は眠れなかった。布団の中で目を閉じても、耳元で湿った息遣いのような音が聞こえる気がした。叔母は私の隣で念仏を唱え続けていたが、その声さえも遠くに感じられた。夜が明ける頃、ようやく静寂が訪れた。私は疲れ果てて眠りに落ちた。
翌日、叔母は私にこう告げた。
「あんた、昨夜何か感じなかった?」
私は首を振ったが、正直なところ、体の奥に冷たい何かが残っているような感覚があった。叔母は黙って頷き、それ以上は何も言わなかった。ただ、その日から彼女は毎晩、家中の窓に塩を撒くようになった。
数日後、私は集落の古老からある話を聞いた。20年以上前、この集落の近くの海で若い漁師が嵐に巻き込まれて死んだ。その男は恋人に会うために無理やり船を出したのだという。だが、死んだ後もその執念が消えず、霊となって海辺を彷徨っているらしい。そして、その霊は特に若い者に取り憑きやすいのだと。
その話を聞いて、私はあの影のことを思い出した。あの蹲る姿、あの湿った気配。あれは、恋人を求めて彷徨う亡魂だったのだろうか。私を見つめるその視線は、助けを求めるものだったのか、それとも私を海の底へ引きずり込もうとするものだったのか。
夏休みが終わり、私は叔母の家を後にした。だが、それ以来、夜に目を閉じるたびにあの影が脳裏に浮かぶようになった。特に湿度の高い日には、耳元でかすかな波音が聞こえることがある。現実なのか夢なのか分からないまま、私はただ目を閉じてやり過ごすしかない。
叔母はその後も集落に住み続けているが、最近では電話で話すたびに「あの影がまた近づいてきてる気がする」と呟くようになった。私はただ聞き流しているが、心のどこかで、あの夜の記憶が再び蘇ってくる。
今でも思う。あの影は私を見ていた。そして、もしかしたら今もどこかで私を待っているのかもしれない。湿った夜の空気を感じるたび、私は無意識に肩を震わせ、耳を塞いでしまうのだ。