青森の山奥に広がる深い森。その場所には、古くから人が近づかないとされる一角があった。そこは陽光さえ届かぬほど木々が密集し、地面には苔がびっしりと生え、湿った空気が漂っている。地元の者たちは、その森の奥に何か得体の知れないものが潜んでいると囁き合い、決して足を踏み入れようとはしなかった。
ある冬の夕暮れ、俺は友人のタカシと一緒にその森の近くを通りかかった。タカシは好奇心旺盛で、地元の噂話を笑いものにするような奴だった。「そんなのただの迷信だよ。行ってみようぜ」と軽い調子で言う彼に、俺は嫌な予感を覚えながらも渋々ついていくことにした。冷たい風が頬を刺し、空はどんよりと灰色に染まっていた。
森の入り口に差し掛かると、急に風が止んだ。まるで何かに見られているような感覚が背筋を這い上がり、俺は立ち止まった。「やめよう、タカシ。ここ、なんかおかしいよ」と訴えたが、彼は笑って俺の手を引っ張った。「ビビりすぎだろ。ほら、何もないって」と言いながら、彼はどんどん森の奥へ進んでいく。
木々の間を抜けると、視界が急に開けた。そこには古びた祠があった。苔むした石造りの祠は、長い間人の手が触れていないようで、周囲には異様な静けさが漂っていた。タカシは祠に近づき、「何だこれ?ただの石じゃん」と笑いながらその表面を叩いた。その瞬間、どこからか低い唸り声のような音が響き、俺の心臓が跳ね上がった。「タカシ、やめろ!」と叫んだが、彼は気にも留めず祠の周りを歩き回った。
その夜、俺たちは近くの集落で一泊することにした。宿の老婆は俺たちが森に行ったと知ると、顔を青ざめさせた。「あそこには行っちゃいけない。あの森には昔から何か棲んでるんだよ」と震える声で言った。彼女の話では、その森の祠はかつて村人を守るためのものだったが、ある時を境に「何か」がそこに封じられたのだという。それ以降、祠に近づく者は皆、不思議な体験をするか、あるいは二度と戻らないのだと。
老婆の言葉が頭から離れず、俺はその夜、眠れなかった。タカシは隣の布団で無邪気に寝息を立てていたが、俺の耳には妙な音が聞こえ始めていた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは人の声のようになっていった。囁き声だ。「……お前が……来た……」と、かすかに、だが確かに聞こえる。目を閉じてもその声は消えず、だんだんと近づいてくる気がした。
翌朝、タカシが消えていた。布団は冷たく、彼の靴も荷物もそのままだった。慌てて宿の老婆に知らせると、彼女は目を伏せて呟いた。「あの子、連れてかれたんだね……」。俺は震えながら森に戻ることを決めた。タカシを置いて帰るわけにはいかなかった。
森に着いた時、空は再び灰色に閉ざされ、雪がちらつき始めていた。祠の前まで来ると、そこにはタカシのジャケットが落ちていた。拾い上げた瞬間、背後で木々がざわめき、何かが動く気配がした。振り返ると、誰もいない。ただ、遠くの木々の間に、黒い影が揺れているように見えた。心臓が締め付けられるような恐怖が全身を包んだが、タカシを探すため、俺はその影の方へ歩き始めた。
どれだけ歩いただろう。足元の雪が深くなり、冷気が骨まで染みてくる。すると突然、目の前にタカシが立っていた。「タカシ!無事だったのか!」と駆け寄ろうとしたが、彼の顔を見た瞬間、俺は凍りついた。目が……目がなかった。ただの黒い穴が顔に開いているだけだった。それでも彼は笑っていた。口だけが不自然に歪み、歯を見せて笑っている。「お前も……来いよ……」と、低い、聞き慣れない声で呟いた。
俺は叫び声を上げて逃げ出した。足がもつれ、雪に何度も転びながら必死に走った。背後からは、タカシの声が追いかけてくる。「お前も……お前も……」と繰り返し、どんどん近づいてくる。森を出た時には息が切れ、膝が震えて立っていられなかった。振り返ると、森の縁に黒い影が立っていた。タカシの形をしていたが、もはや人間ではなかった。
それから数日後、俺は集落を出て街に戻った。でも、あの囁き声はまだ耳に残っている。夜になると聞こえるのだ。「お前も……来いよ……」と。窓の外を見ると、時折、黒い影が揺れている気がする。あの森に近づいたことを後悔している。でも、もしかしたら、もう遅いのかもしれない。あの祠に触れた瞬間、俺も何かの一部になってしまったのかもしれない。
今でも思う。あの森の奥には何が潜んでいるのか。タカシはどこへ連れていかれたのか。そして、俺に囁く声はいつまで続くのか。答えは誰も知らない。ただ一つ確かなのは、あの森に近づくべきではなかったということだ。