山口県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに暮らす俺は、幼い頃から祖母に言い聞かされていた。「夜道を一人で歩くな。山の奥には得体の知れないものが潜んでいるからな」と。20年ほど前、俺がまだ高校生だった頃の話だ。あの時、俺は確かにそれを目にしてしまった。
夏休みのある蒸し暑い夜、友だちと集落の外れにある神社で肝試しをしようと盛り上がった。メンバーは俺を含めて5人。懐中電灯を手に、笑いながら暗い山道を進んだ。神社は集落から少し離れた場所にあり、古びた鳥居をくぐると、苔むした石段が森の奥へと続いている。普段は昼間にしか来たことがなかったが、夜の神社はまるで別世界だった。風が木々を揺らし、どこか遠くでフクロウが鳴いている。少し不気味だったが、みんなで騒いでいたから最初は怖さなんて感じなかった。
神社に着くと、俺たちは境内を歩き回り、賽銭箱の前でふざけて写真を撮ったりした。だが、その時だった。境内の裏手、森の奥から妙な音が聞こえてきたのだ。最初は風の音かと思ったが、よく耳を澄ますとそれは規則的なリズムを刻んでいた。トン、トン、トン……。何か重いものが地面を叩くような音。友だちの一人が「何だこれ?」と呟き、全員が音のする方向を見た。懐中電灯を向けても、木々の隙間に光が吸い込まれるだけで何も見えない。だが、音は確実に近づいてきていた。
「鹿か何かじゃない?」と誰かが言ったが、俺の背筋には冷たいものが走った。祖母の言葉が頭をよぎったのだ。「山の奥には得体の知れないものが潜んでいる」。冗談半分で「帰ろうぜ」と提案したが、みんなはまだ興奮していて、「もう少し見てみよう」と言い出した。仕方なく俺もついていくことにした。音の方へゆっくり近づくと、木々の間からかすかに動く影が見えた。人間じゃない。背が高く、異様に長い手足を持った何かがそこに立っていた。
俺は凍りついた。懐中電灯の光を当てると、それは一瞬こちらを振り向いた。顔はなかった。目も鼻も口もない、平らで黒い表面が光を反射しただけだった。だが、その頭部がぐるりと180度回転し、俺たちの方を向いた瞬間、全身が震えた。友だちの一人が悲鳴を上げ、次の瞬間、そいつはものすごい速さでこちらへ向かってきた。トン、トン、トンという足音が一気に大きくなり、地面が揺れるほどの勢いだった。
「逃げろ!」と叫びながら俺たちは一目散に神社を飛び出した。石段を転がるように下り、誰かが懐中電灯を落としたが拾う余裕なんてなかった。背後から迫る足音はどんどん近づいてきて、首筋に冷たい息がかかるような感覚さえあった。集落の灯りが見えるまで走り続け、ようやく民家の近くまでたどり着いた時、振り返るとそこには何もいなかった。足音も消え、静寂だけが広がっていた。
その夜、俺たちは誰とも目を合わせられず、それぞれ家に帰った。翌日、友だちの一人が「あの時、俺の背中に何か触った気がする」と震えながら言った。別の奴は「あの影、俺たちを追い越して森の奥に消えたよな」と呟いた。俺は黙っていたが、実は逃げる途中で一瞬だけ振り返った時、木々の間に立つそいつの姿を再び見た気がした。しかも、その時初めて気づいたのだ。そいつは両腕を地面につけ、四足で追いかけてきていたことを。
それから数日後、神社の裏手の森で異様なものが見つかったと集落で噂になった。大きな木の幹に、鋭い爪で引っ掻いたような深い傷が無数に刻まれていたのだ。俺たちは二度とあの神社には近づかなかったし、夜の山道を歩くこともなくなった。だが、今でも時折、静かな夜に窓の外からトン、トン、トンという音が聞こえることがある。あの時の恐怖が、20年経った今でも俺の心にこびりついている。
集落の古老に後日聞いてみたところ、あの山には昔から「山の影」と呼ばれる妖怪が棲んでいるという言い伝えがあるらしい。人を襲うことは滅多にないが、夜に山へ入り込んだ者を追い詰め、恐怖を植え付けて楽しむのだとか。俺たちが目撃したのは、まさにそれだったのかもしれない。あの異形の姿と足音は、夢の中でさえ何度も蘇ってくる。今でも思う。あの夜、もし俺たちが逃げ遅れていたら、どうなっていたのだろうかと。