ある夏の夜、私は友人と共に三重県の山間部にある小さな集落を訪れていた。そこは彼女の祖母が暮らす場所で、古びた木造の家々が静かに並ぶ、時間が止まったような場所だった。携帯の電波も不安定で、夜になると虫の声だけが響き渡る。祖母の家に泊まることになり、夕食後、縁側で涼んでいた時、彼女がふと言った。
「この辺り、昔から変な噂があるんだよね。」
私は興味をそそられ、詳しく聞いてみることにした。彼女によると、この集落の裏山には「入ってはいけない場所」があるという。そこは鬱蒼とした森に覆われ、昔から何かが棲んでいるという言い伝えがあった。子供の頃、祖母に「夜は絶対に近づくな」と言われたらしい。彼女は笑いものだと言わんばかりに話していたが、その声にはどこか不安が混じっているように感じた。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。窓の外からは風が木々を揺らす音が聞こえ、時折、何か遠くで鳴くような声が混じる。気になってカーテンを少し開けると、月明かりに照らされた裏山がぼんやりと見えた。その時、森の奥から一瞬だけ、何か白いものが動いた気がした。目を凝らすが、もう何も見えない。錯覚だろうと自分を納得させ、布団に潜り込んだ。
翌日、友人は祖母の手伝いで出かけ、私は一人で家に残ることになった。昼間は静かで穏やかな集落だったが、なぜか落ち着かない気分が抜けなかった。暇つぶしに家の周りを散歩していると、裏山の入口に古びた鳥居が立っているのに気づいた。苔むした石段が森の奥へと続いており、言いようのない不気味さが漂っていた。友人の話が頭をよぎり、近づくべきではないと思ったが、好奇心が勝ってしまった。
石段を登り始めると、空気が急に重くなったような感覚に襲われた。木々の間を抜ける風が冷たく、どこか湿った匂いが鼻をつく。数十段登ったところで、開けた場所に出た。そこには小さな祠があり、周囲には色褪せたお札が貼られていた。祠の前には供え物らしきものが放置されており、腐った果実の臭いが漂っていた。私は少し怖くなり、引き返そうとしたその瞬間、背後でカサリと音がした。
振り返ると、誰もいない。風で葉が擦れただけかもしれない。それでも心臓が早鐘を打つ。急いで石段を下りようとした時、視界の端にまたあの白い影が映った。今度ははっきりと、人の形をしているように見えた。立ち止まり、恐る恐るそちらを見ると、木々の間に白い着物を着た女が立っていた。顔は見えないが、長い髪が風に揺れている。彼女がこちらを向いた瞬間、目が合った気がした。次の瞬間、彼女の姿は消えていた。
慌てて家に戻り、友人にそのことを話すと、彼女の顔が青ざめた。「それ、見ちゃったの?」と震える声で言う。彼女によると、その白い女は昔からこの土地で目撃されている「何か」で、見てしまった者は必ず不思議な体験をするという。祖母も若い頃に同じものを見たことがあり、その後、数日間高熱にうなされたそうだ。私は冗談だろと笑おうとしたが、彼女の真剣な表情に言葉を失った。
その夜、私は再び眠れなかった。窓の外を見ると、月が不気味に赤く染まっているように見えた。そして、遠くから聞こえる声。今度ははっきりと、それは女の泣き声だった。低く、嗚咽のような音が夜の静寂を切り裂く。私は耳を塞ぎ、目を閉じたが、声は頭の中に直接響いてくるようだった。次第にその声は言葉に変わり、「こっちへおいで」と繰り返し囁き始めた。
恐怖で体が震え、布団の中で丸くなった。どれくらい時間が経ったのかわからないが、声が止んだ時、窓の外からかすかな足音が聞こえてきた。トントン、と軽く何かが縁側を叩く音。私は息を殺し、動かないようにした。すると、窓ガラスを爪で引っかくような音がした。ゾッとして目を開けると、窓の外に白い顔が浮かんでいた。目は真っ黒で、口元だけが異様に赤い。女が私を見つめ、ニヤリと笑った瞬間、叫び声を上げて気を失った。
目が覚めた時、朝陽が部屋を照らしていた。友人が心配そうに私を見下ろし、「大丈夫? 夜中叫んでたよ」と言った。私は昨夜のことを話そうとしたが、言葉にならない。ただ、窓の外を見ると、ガラスに細かな引っかき傷が残っていた。それを見た友人は黙り込み、祖母を呼んだ。祖母は私の話を聞き終えると、静かに言った。「あんた、あの場所に行ったね。あれは人間じゃないよ。」
祖母によると、その白い女はこの土地に古くから棲む異界の存在で、祠に封じられているはずだった。しかし、誰かが近づくと現れ、呼び込むのだという。昔、村の若者が同じものに誘われ、森の奥で姿を消したこともあった。私はただの迷信だと信じたい気持ちと、昨夜の恐怖が現実だったという感覚に引き裂かれていた。
それから数日、私は原因不明の高熱に苦しんだ。夢の中ではあの女が現れ、笑いながら私を森の奥へと誘う。目覚めるたびに汗だくで、喉が渇いて仕方なかった。友人は心配して看病してくれたが、私には彼女の声さえ遠くに感じられた。そして熱が引いた日、私は家の縁側でぼんやりと裏山を見ていた。すると、森の奥から再び白い影が動くのが見えた。今度はこちらをじっと見つめているようだった。
私はもう二度とあの集落には近づかないと心に誓った。それでも、時折、夜中にあの囁き声が聞こえる気がする。「こっちへおいで」と。窓の外を見ると、何もいないはずなのに、どこかで視線を感じる。あの女はまだ私を見ているのかもしれない。そして、いつか本当に連れていかれる日が来るのではないか。そんな恐怖が、今も私の心を離さない。