異界の霧に呑まれた村

ホラー

広島県の山奥に、その村はひっそりと佇んでいた。

古びた木造の家々が点在し、苔むした石垣が細い道を区切る。村の周囲を囲む深い森は、昼間でも薄暗く、鳥のさえずりさえ途絶えがちだった。村人たちは口数が少なく、よそ者には冷たい視線を向ける。そこに暮らす者たちは、長年にわたって外界との関わりを避け、独自の風習を守り続けていた。

ある夏の夜、村に異変が訪れた。その日は朝から奇妙な霧が立ち込めていた。普段なら昼過ぎには晴れるはずの空が、いつまでも灰色に閉ざされていた。霧は次第に濃くなり、家の軒先すら見えなくなるほどだった。村人たちは戸を閉ざし、窓に板を打ち付け、まるで何かから身を守るように息を潜めた。

私――この話を後に語り継ぐことになる男――は、その時、村に迷い込んでいた。旅の途中で道に迷い、携帯の電波も届かず、仕方なく近くに見えた集落を目指したのだ。村に着いた時にはすでに夕暮れで、霧が足元を這うように広がっていた。助けを求めて何軒か門を叩いたが、返事はなく、どの家も死んだように静まり返っていた。

やがて、霧の中からかすかな音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは人の声のように感じられた。低く、呻くような声が、どこからともなく響いてくる。恐怖を感じながらも、私はその音のする方へ足を進めた。すると、村の外れにある小さな神社にたどり着いた。社の前には古い石灯籠が立ち、霧に濡れて黒く光っていた。

その時、声が急にはっきりと聞こえた。「帰れ……ここはお前たちの来るところではない……」

振り返っても誰もいない。ただ、霧がさらに濃くなり、私の周囲を包み込むように渦を巻いていた。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。私は逃げようと踵を返したが、足が思うように動かない。まるで霧そのものが私を引き留めているかのようだった。

すると、神社の裏手から影が現れた。人の形をしているが、どこか歪んでいる。背が高く、手足が異様に長く、顔は霧に隠れて見えない。影はゆっくりと近づいてくる。私は叫び声を上げようとしたが、喉が締め付けられるように声が出なかった。その影が手を伸ばした瞬間、目の前が暗転した。

気がつくと、私は森の入り口に倒れていた。霧は晴れ、朝日が木々の間から差し込んでいた。村の方向を見ても、何も見えない。ただの森が広がっているだけだった。あの村はどこへ消えたのか。私の服には泥と苔がこびりつき、腕には何かにつかまれたような赤い痕が残っていた。

それから数日後、私は近くの町で村のことを調べようとした。だが、地図にも記録にも、そんな村は存在しない。古老に話を聞いても、「あの辺りは昔から何もない」と言うばかりだった。しかし、一人の老女が私の話を聞いて顔色を変えた。「あんた、あの霧に呼ばれたんだね……」彼女は震える声でそう呟き、それ以上は何も語らなかった。

それ以降、私はあの夜のことを夢に見るようになった。霧の中を彷徨い、呻き声に追われ、歪んだ影に手を伸ばされる。目が覚めると、必ず腕に新たな痕が残っている。医者に診せても原因は分からず、日に日に痕は増えていく。あの村は、私を完全に手放してはくれなかったのだ。

今でも思う。あの霧は、ただの自然現象ではなかった。あれは、この世界と別の何かを繋ぐ境界だったのではないか。そして、私はその境界を踏み越えてしまったのだ。村は消えたのではなく、異界の奥深くに隠れているのかもしれない。そして、いつかまた霧が現れ、私を完全に呑み込む日が来るのではないか。

もし、あなたが広島の山奥で道に迷い、奇妙な霧に包まれたなら、決してその先へ進まないでほしい。あの呻き声が聞こえたら、すぐに踵を返して逃げるのだ。そうしないと、あなたも私と同じ目にあうかもしれない。

(以下、物語の余韻を残すため、少し間を空けて)

村の名も知れぬ神社は今もどこかに佇んでいるのだろうか。霧の向こうで、私を待ち続けているのだろうか。

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