山影に潜む歪んだ咆哮

モンスターホラー

それは、ある夏の終わりだった。

山間の集落に暮らす俺は、都会の喧騒を離れ、静かな生活を求めて長野の山奥に移り住んでいた。標高の高いその場所は、空気が澄み、夜になると星が異様に近く感じられるほどだった。集落は小さく、住民は20人ほど。皆が顔見知りで、畑仕事や山菜採りが日常だった。俺はまだ若かったが、都会での仕事に疲れ、自然の中で何か新しいことを始めたいと思っていた。

その日、俺は山の奥で薪を集めていた。夕暮れが近づき、薄オレンジ色の光が木々の間を染めていた時だ。突然、風が止まり、森が一瞬にして静まり返った。鳥のさえずりも、虫の音も、何もかもが消えた。不思議に思って顔を上げると、遠くの尾根に何か黒い影が動いた気がした。目を凝らすが、距離が遠すぎてよく見えない。鹿か熊だろうと自分に言い聞かせ、気にしないことにした。

だが、その夜から奇妙なことが起こり始めた。

最初に異変に気付いたのは、集落の年寄りたちだった。朝、井戸端会議のように集まる彼らが、顔を曇らせて囁き合っていた。「昨夜、山の方から変な音がした」と。低い唸り声のような、でもどこか人間の叫びに似た、不気味な音だったらしい。俺もその話を聞いて、少し気味が悪くなったが、まあ山には色んな動物がいるさ、と笑いものにしていた。

ところが、次の夜、俺自身がその音を聞いた。

深夜、寝床で本を読んでいると、窓の外から響いてきた。ゴォォォ……という、低く重い音。風でもない、獣の鳴き声とも違う。背筋がゾッとした。窓に近づき、カーテンをそっと開けて外を見たが、真っ暗で何も見えない。ただ、音は確かに山の奥から聞こえてくる。しばらくすると、それは途切れ、静寂が戻った。だが、その静けさが逆に不気味で、眠れなかった。

翌日、俺は近所に住む猟師のオヤジにその話をした。彼は60歳くらいで、山を知り尽くした男だった。「あぁ、それなぁ……」と、オヤジは眉を寄せた。「昔から山の奥には何かいるって噂はあったよ。俺がガキの頃、じいちゃんが言ってた。夜中に山に入るな、歪んだ声が聞こえたら逃げろってな」。オヤジの言葉に、俺は半信半疑だったが、好奇心が疼いた。「何か、確かめてみようか?」と軽い気持ちで提案すると、彼は渋い顔をしたが、「まぁ、昼間ならいいか」と渋々了承してくれた。

その日の午後、俺とオヤジは猟銃と懐中電灯を持って山に入った。目指すは、音が聞こえてきた尾根のあたりだ。歩きながら、オヤジが昔話を始めた。「50年くらい前、この辺で猟師が一人消えたんだ。山で何かに襲われたらしく、血まみれの服と銃だけが見つかった。以来、誰もその奥には近づかねぇ」。そんな話を聞いているうちに、俺たちは尾根にたどり着いた。

そこには、何か異様なものがあった。

地面に、巨大な足跡がいくつも残されていた。人間のものより一回り大きく、爪の跡が深く刻まれている。熊にしては形が違いすぎる。オヤジが顔をこわばらせ、「これは……おかしい」と呟いた。辺りを見回すと、木の幹に奇妙な傷が付いている。鋭い爪で引っ掻いたような、だが無秩序で、何か狂ったような痕跡だった。俺の心臓が早鐘を打った。

その時、遠くでガサッと音がした。

俺たちは一斉にそちらを見た。木々の間を、何か大きな影が動いている。黒く、異様に長い腕のようなものが見えた気がした。オヤジが「戻るぞ!」と叫び、俺たちは急いで下山した。背後から、風でもない不自然な空気の振動を感じたが、振り返る勇気はなかった。

それから数日、集落全体が緊張に包まれた。夜になると、あの音が毎晩のように聞こえるようになった。ゴォォォ……と唸り、時折、ガリガリと何かを引っ掻く音が混じる。住民たちは家に閉じこもり、窓に板を打ち付ける者まで出た。俺も眠れず、毎夜、恐怖に震えながら朝を待った。

そして、事態は最悪の形であの日を迎えた。

9月のある夜、音がいつもより近くに感じられた。窓の外を見ると、集落の外れにある納屋の近くに、黒い影が立っていた。月明かりに照らされ、その姿がはっきりと見えた。人間のような形だが、異常に長い手足。顔は暗くて見えないが、頭部が歪んでいて、まるで何かに潰されたように見えた。そいつはゆっくりと動いており、時折、地面を這うような仕草を見せた。

俺は息を殺し、動けなかった。すると、その怪物がこちらを向いた気がした。目が合った瞬間、全身が凍りついた。そいつが口を開き、低い咆哮を上げた。ゴォォォォォ! その音は、家の中まで響き渡り、耳を塞いでも頭に直接響いてくるようだった。

翌朝、納屋の周りが無残な状態になっていた。扉が引きちぎられ、壁に深い爪痕が残されていた。中にいた鶏は全て食いちぎられ、血と羽が散乱していた。集落の者たちはパニックに陥り、「山の神の怒りだ」「呪われた」と口々に叫んだ。俺はもう限界だった。猟師のオヤジに相談し、集落を出ることを決めた。

だが、最後の夜が忘れられない。

荷物をまとめていると、窓の外からあの咆哮が聞こえた。今度はすぐ近く、家の裏の林からだ。恐る恐る外を見ると、そいつがいた。月明かりの下、黒い体がうごめき、長い腕を地面に這わせている。顔はやはり見えないが、口が異様に大きく裂け、白い歯のようなものが覗いていた。そいつが一歩、こちらに近づいた瞬間、俺は叫び声を上げ、家を飛び出した。

暗闇の中、ただひたすら走った。背後から、地面を叩くような足音と咆哮が追いかけてくる。息が切れ、足がもつれそうになった時、遠くに集落の灯りが見えた。助けを求めて叫びながら走り続け、なんとかオヤジの家にたどり着いた。

オヤジが銃を持って外に出たが、すでにそいつの姿はなかった。ただ、家の周りにあの巨大な足跡が残されていた。翌朝、俺は集落を後にした。二度と戻らないと心に誓って。

あれから10年近く経つが、今でもあの咆哮が耳に残っている。山の奥に潜む何か。あの歪んだ姿と音は、一生忘れられない。あの集落が今どうなっているのか、知る勇気はない。

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