薄闇に響く足音の秘密

実話風

数年前の夏、広島県の山間部に位置する小さな集落に引っ越してきた私は、新しい生活に胸を膨らませていた。

その集落は、古びた木造家屋が点在し、昼間でもどこか薄暗い雰囲気が漂う場所だった。引っ越して間もないある晩、窓の外から奇妙な音が聞こえてきた。カツ、カツ、カツ……。まるで誰かが硬い靴で地面を叩くような、規則正しい足音だった。

最初は近所の誰かが夜道を歩いているのだろうと気にも留めなかった。しかし、その足音は毎晩、同じ時間に聞こえてくるようになった。時計の針が午前2時を指す頃、決まってその音が集落の細い道を響き渡るのだ。窓から覗いても、街灯の薄い光に照らされた道には誰もいない。ただ、足音だけが空気を切り裂くように続いていた。

不思議に思った私は、近所に住むおばあさんにその話を聞いてみた。おばあさんは目を細めて、少し震える声でこう言った。

「あんた、あの足音を聞いちゃったのかい。それはね、昔この集落で起きた悲しい出来事の名残なんだよ……。」

おばあさんの話によると、数十年も前、この集落で若い女性が行方不明になったことがあった。彼女は毎晩、恋人に会うために山道を抜けて隣町まで歩いていたらしい。ある日を境に彼女は忽然と姿を消し、それ以来、集落では深夜に足音だけが聞こえるようになったという。村人たちは、彼女が何かに連れ去られたか、山で道に迷って死んでしまったのだと噂していた。

その話を聞いてから、私はあの足音がただの偶然ではない気がしてならなかった。ある夜、好奇心に負けて、私は足音の正体を確かめようと決めた。懐中電灯を手に持ち、足音が近づいてくるのを待った。午前2時、いつものように足音が聞こえ始めた。カツ、カツ、カツ……。音は私の家の前を通り過ぎ、少しずつ遠ざかっていく。私は意を決して外に出て、その音を追った。

夜の集落は静寂に包まれ、遠くで虫の声がするだけだった。足音は私を山の入り口へと導くように響き続けていた。懐中電灯の光を頼りに細い山道を進むと、足音が急に止まった。辺りを見回しても何もない。ただ、冷たい風が木々の間を抜ける音だけが聞こえる。私は立ち止まり、耳を澄ませた。

すると、背後からかすかな声が聞こえた。「……どこ?」

振り返った瞬間、懐中電灯の光が何かを捉えた。薄い白い服をまとった人影が、木々の間に立っていた。顔は見えない。ただ、長い髪が風に揺れているのが分かった。私は息を呑み、足がすくんで動けなくなった。人影はゆっくりとこちらに近づいてくる。カツ、カツ、カツ……。足音が再び響き始めた。

パニックに陥った私は懐中電灯を落とし、必死に家へと逃げ帰った。ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、窓の外からあの足音がすぐ近くで聞こえた。カツ、カツ、カツ……。そして、小さな声が耳に届いた。「見つけた。」

それからというもの、私は毎晩、その足音に怯えるようになった。カーテンを閉め、電気をつけたまま眠る日々が続いた。ある日、集落の別の住人が私の家を訪ねてきた。彼は私の様子を見て、こう言った。

「あんた、あの足音に呼ばれたんだね。気をつけな。あれに近づきすぎると、連れていかれるよ。」

彼の言葉に背筋が凍った。それ以降、私は足音が聞こえても決して外に出ないと誓った。しかし、ある晩、いつもより足音が大きく、はっきりと聞こえてきた。カツ、カツ、カツ……。まるで家の周りをぐるぐると回っているようだった。そして、窓の外からかすかに見えたのは、白い服の人影が私の家の周りを歩き回る姿だった。

私は布団をかぶり、震えながら朝を待った。足音はやがて遠ざかり、朝日が昇ると共に静寂が戻ってきた。だが、その日から私の家の周りには奇妙な変化が現れ始めた。庭の草が不自然に踏み潰され、夜になると窓に小さな手形が残るようになった。誰かに見られているような感覚が消えず、私は次第に眠れなくなっていった。

ある夜、とうとう我慢できなくなり、私は集落を出る決意をした。荷物をまとめ、車に飛び乗ると、夜の山道をひたすら走った。バックミラーを見ると、遠くに白い人影が立っているのが見えた。カツ、カツ、カツ……。足音が追いかけてくるような錯覚に襲われたが、私はアクセルを踏み込み、その集落を後にした。

新しい町に移ってからも、あの足音が耳に残っている。静かな夜になると、遠くからカツ、カツ、カツ……と聞こえてくる気がしてならない。あの集落で見たものは何だったのか。あの人影は私をどこへ連れていこうとしたのか。今でもその答えは分からない。ただ一つ確かなのは、あの足音が私の人生に深い影を落としたということだけだ。

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