闇に響く足音の正体

怪談

富山の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに暮らす私は、幼い頃から祖母に「夜の山には近づくな」と言い聞かされて育った。山の奥には何か得体の知れないものが潜んでいて、暗闇が落ちると共にそれが動き出すのだと。子供心にその言葉は妙に重く響き、夕暮れが近づくと決まって家に急いで帰ったものだ。

ある晩のことだった。私は近所に住む幼馴染と遅くまで話をしていて、気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。空には月もなく、冷たい風が木々の間を抜けて不気味な音を立てている。幼馴染の家から我が家までは、細い山道を10分ほど歩く必要があった。「大丈夫だよ、すぐそこだから」と自分に言い聞かせながら、私は足早に歩き始めた。

最初はただの夜の静けさに包まれていた。けれど、数歩進んだところで、何か違和感を覚えた。背後から微かに、だが確かに、「カサッ、カサッ」という音が聞こえてきたのだ。落ち葉を踏むような、軽い音。振り返ってもそこには誰もいない。ただ、闇が広がっているだけだ。風のせいだと自分を納得させ、再び歩き出した。だが、その音は止まなかった。それどころか、少しずつ近づいてくるように感じた。

心臓がドクドクと脈打ち、冷や汗が背中を伝う。私は歩調を速めた。するとその瞬間、「カサッ」という音が一際大きく響き、まるで何かが私のすぐ後ろに迫っているかのようだった。恐る恐る肩越しに振り返ると、そこにはやはり何もなかった。ただ、暗闇の中に木々が揺れているだけだ。だが、その揺れが妙に不自然で、まるで何かが通り抜けた後のように見えた。

息を切らしながら家にたどり着いた私は、玄関の戸を勢いよく閉め、鍵をかけた。母が驚いた顔で「お前、どうしたんだ」と聞いてきたが、私は言葉にならず、ただ震えるばかりだった。その夜、眠りに落ちるまで、私は何度も窓の外を見た。風が木々を揺らし、時折枝がガラスを叩く音がするたびに、心が縮こまった。

翌朝、母に昨夜のことを話すと、彼女は黙って私の顔を見つめた後、ポツリと言った。「お前、昨夜は山道を歩いたのか?」私が頷くと、母の顔が一瞬強張った。「あの道はな…昔から妙な噂があるんだよ。夜になると、どこからともなく足音が聞こえてくるってな」

その言葉に、私は凍りついた。母は続けた。「昔、村の猟師が山で姿を消したことがあってな。その後、何人かが夜の山道で妙な音を聞いたって言うんだ。足音だけが響いて、でも誰もいない。猟師の霊が彷徨ってるんじゃないかって…」母はそこで言葉を切り、苦笑いのような表情を浮かべた。「まぁ、ただの噂さ。お前が怖がるような話じゃないよ」

だが、その日から私は夜の山道を歩くことができなくなった。それだけではない。昼間であっても、あの道を通るときは妙な気配を感じるようになった。風が吹くたびに木々がざわめき、その中に紛れて「カサッ、カサッ」という音が聞こえる気がするのだ。錯覚だと言い聞かせても、心のどこかで恐怖が疼く。

数年後、私は集落を出て町へ移った。新しい生活に慣れ、恐怖の記憶も薄れかけていたある日、幼馴染から手紙が届いた。懐かしい筆跡に笑みがこぼれたが、その内容を読んだ瞬間、私の体は再び震え始めた。

「最近、村で妙なことが起きてる。あの山道で、夜になるとまた足音が聞こえるって人が増えてるんだ。俺もこの前、遅くに帰る途中で聞いたよ。カサッて音が、ずっと後ろから付いてきてさ。振り返っても誰もいないのに、気味が悪くて走って帰った。あの夜、お前が言ってたのと同じだよな?」

手紙を握り潰しそうになりながら、私はあの夜の記憶を呼び起こした。足音は確かにそこにあった。誰かが、または何かが、私を追いかけていたのだ。そしてそれは、今もあの山道を彷徨っているのだろうか。

それからしばらくして、私は偶然知り合った古老から更に恐ろしい話を聞いた。彼は目を細め、低い声で語り始めた。「あの山にはな、昔から何かいるんだよ。猟師が消えたのも、ただの事故じゃなかった。村の古老たちは言うんだ。あの山の奥には、人を喰らうものが潜んでいて、夜になると獲物を求めて出てくるってな。足音だけが聞こえるのは、それがまだ姿を見せる前なんだよ。もし、お前があの夜に立ち止まってたら…」彼はそこで言葉を切り、意味深に私を見た。

その話を聞いて以来、私は二度と故郷の集落に近づいていない。だが、時折夢に見るのだ。暗闇の中、木々の間を抜けて近づいてくる足音。そしてその音が、私の耳元で止まった瞬間、冷たい息が首筋にかかる感覚。あれは本当にただの風だったのだろうか。それとも、私が知らないうちに、何かに見つかってしまっていたのだろうか。

今でも、静かな夜に窓の外から微かな音が聞こえるたび、私はあの山道での出来事を思い出す。そして、心の奥底で囁く声がする。「あれはまだ終わっていない」と。

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