闇に蠢く赤い眼の怪

ホラー

私の祖父がまだ若かった頃、村で聞いた話だ。

その日、祖父は山仕事の帰りに薄暗い森の道を歩いていた。時は明治の頃、村にはまだ電灯などなく、提灯の頼りない明かりだけが足元を照らす。山の奥から聞こえる獣の遠吠えが、冷たい風に混じって耳に届く。祖父は急ぎ足で家路についていたが、どこかで道を間違えたらしい。見慣れたはずの木々が異様にねじれ、まるで生きているかのように枝を伸ばしているように見えた。

ふと、前方に何か赤いものが揺れているのに気づいた。提灯を掲げると、それは二つの光点だった。獣の目だ。祖父は猟師でもあったから、熊か狼かと身構えた。しかし、その光は異様に高く、まるで人間が立っているような位置にあった。気味が悪いと感じた祖父は、そっと後ずさりしようとしたが、その瞬間、赤い眼がスッと動いた。まるでこちらを見つけたかのように。

「誰だ!」

祖父は叫んだが、返事はない。代わりに、低い唸り声が森全体に響き渡った。提灯の明かりが届く範囲に、そいつが姿を現した。背は人間の二倍近くあり、骨と皮ばかりの細長い体。顔らしき部分には口がなく、ただ赤く光る二つの眼だけが浮かんでいる。手足は異様に長く、先端には鋭い爪が光っていた。祖父は凍りついた。そいつが一歩踏み出すたび、地面が腐ったような臭いを放ち、草が枯れていくのが見えた。

逃げなければ。祖父は提灯を投げつけ、踵を返して走った。背後で何かが地面を叩く音が追いかけてくる。息が切れ、心臓が破裂しそうだったが、止まれば終わりだと本能が告げていた。どれだけ走ったか分からない。やっと村の明かりが見えた時、振り返ると赤い眼は消えていた。だが、その夜から祖父の人生は変わった。

翌朝、祖父が山に戻ると、提灯が落ちていた場所には異様な足跡が残されていた。人間の足よりも大きく、爪の跡が深く刻まれている。村の古老にその話をすると、彼は顔を青ざめ、「あれは『赤眼の怪』だ」と呟いた。古老曰く、明治の初め頃、宮城の山奥で飢饉が起きた時、村人たちが禁忌を犯し、山の神を怒らせた。その呪いとして現れたのが、あの怪だという。人間を喰らうでもなく、ただ追い詰め、恐怖を与え続ける。それが赤眼の怪の習性だと。

祖父はその後、何度も夢に見た。赤い眼が闇の中でじっとこちらを見つめている夢だ。目を覚ますと、部屋に腐臭が漂い、窓の外に赤い光が一瞬見えた気がした。村の者たちも異変に気づき始めた。山から帰らぬ者が増え、夜になるとどこからか唸り声が聞こえるようになった。ある晩、祖父の幼馴染が山で姿を消した。彼の家畜は全て食いちぎられ、血まみれの爪痕が家の壁に残されていた。

村人たちは恐れ、祈祷師を呼んだ。祈祷師は山の入り口に結界を張り、怪を封じようとしたが、その夜、彼の悲鳴が村に響き渡った。翌朝、祈祷師の体は見つからず、ただ血の跡と赤い眼の光が森の奥で揺れていたという噂が立った。村は次第に荒れ、若者は都会へ出て行き、残った者たちは怯えながら暮らすしかなかった。

祖父はその話を私に語る時、いつも目を細めてこう言った。

「お前も山に行くなら気をつけな。あの眼はまだそこにいるかもしれん」

私はその言葉を笑いものだと思っていた。だが、数年前、宮城の山を訪れた時、妙な感覚に襲われた。森の奥で何かが動く気配がした。振り返ると、確かに赤い光が一瞬だけ見えた気がした。風が木々を揺らし、低い唸り声のような音が聞こえた。私は慌てて車に戻り、二度とその山には近づいていない。

今でも思う。あの赤眼の怪は、まだ山のどこかで獲物を待っているのではないか。明治の呪いは終わっていないのかもしれない。そして、私が感じたあの視線が、祖父と同じ恐怖の始まりだったのだとしたら。

暗闇で赤い眼が光る時、あなたは逃げられるだろうか?

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