滋賀県の山奥にひっそりと佇む小さな集落に、私は今から20年程前、大学の研究のために訪れていた。
その集落は、琵琶湖の北東に広がる山間部に位置し、湖を見下ろす斜面に古びた家々が点在していた。人口は少なく、老人が大半を占める静かな場所だったが、どこか不気味な空気が漂っていた。研究テーマは「地域の民間伝承と自然環境の関連性」で、私は地元の古老たちから昔話を聞き出す日々を送っていた。
ある晩、集落の外れに住む老女から奇妙な話を聞いた。彼女は痩せこけた体を震わせながら、琵琶湖の湖底にまつわる伝説を語り始めた。「あそこには昔、人が作ったものじゃない音が響いてた。機械みたいな、でも生きてるみたいな…そんな音がな。夜になると湖が唸るんだよ」と。彼女の目は虚ろで、まるでその音が今も耳に残っているかのようだった。私は半信半疑だったが、研究の一環としてメモに書き留めた。
翌日、私は湖畔に足を運んだ。秋も深まり、冷たい風が水面を波立たせていた。湖は静かで、ただただ広大で深遠な存在感を放っていた。地元の漁師に話を聞くと、彼もまた妙な経験を語った。「20年くらい前か、夜中に網を上げてたら、湖の底から変な振動が来た。網が重くなって、引き上げたら何か金属みたいな破片が引っかかってた。錆びてたけど、見たことない形だった」と。彼はその破片を捨ててしまったと言うが、私は好奇心を抑えきれず、湖底に何かが潜んでいる可能性を考え始めた。
その夜、宿に戻った私は奇妙な夢を見た。深い水の中で、巨大な機械が蠢いている。ギアが軋み、鉄が擦れ合う音が響き、暗闇の中で赤い光が点滅していた。それは明らかに人工物だったが、どこか有機的な動きを見せ、まるで生きているかのようだった。目が覚めた時、汗で全身がびっしょりだった。
数日後、私は地元の図書館で古い資料を漁った。すると、戦後間もない頃に書かれた記録に奇妙な記述を見つけた。「湖底に沈んだ実験施設。異国の技術者が極秘裏に持ち込み、終戦と共に湖に廃棄された」と。詳細はなく、ただの噂話のようだったが、私の胸に冷たい不安が広がった。もしそれが本当なら、湖底には何か得体の知れないものが眠っているのではないか。
その不安は現実のものとなった。ある嵐の夜、集落に異様な音が響き渡った。低く、重い、機械的な轟音が湖の方から聞こえてきたのだ。窓から外を見ると、雷鳴に混じって湖面が不自然に揺れ、波が異様なリズムで打ち寄せていた。私は懐中電灯を手に、恐る恐る湖畔へと向かった。
雨に打たれながら湖岸に立つと、遠くの水面に赤い光が瞬いているのが見えた。それは夢で見たものと同じだった。音はますます大きくなり、地面まで振動が伝わってくる。私は恐怖に震えながらも、その光を凝視した。すると、水面が盛り上がり、何か巨大な影が浮かび上がってきた。金属の表面が雷光に照らされ、ギアやパイプのような構造が一瞬だけ見えた。それは機械だったが、まるで意思を持った生き物のように蠢いていた。
突然、影は水中に沈み、音が止んだ。静寂が戻ったが、私の心臓は激しく鼓動していた。翌朝、集落の者たちにその話をしても、誰も信じなかった。ただ、あの老女だけが「やっぱりあれはまだ生きてるんだ」と呟き、遠くを見つめた。
私は研究を切り上げ、集落を後にした。それ以来、あの湖には近づいていない。だが、今でも時折、夢の中であの機械の咆哮を聞くことがある。湖底に沈むその存在は、20年前のあの日、私に見つかるのを待っていたのかもしれない。そして今もなお、深い水の底で静かに息づいているのだろうか。