薄暗い森に響く声

怪奇現象

千葉県の奥深く、山々に囲まれた小さな集落があった。今から30年ほど前、その集落に暮らす人々は、夜になると決して外に出ないという不文律を守っていた。理由を尋ねても、年寄りたちは口を閉ざし、ただ「森が呼ぶからだ」とだけ呟く。子供たちはその言葉に怯え、夕暮れが近づくと家に駆け込むのが常だった。

ある夏の夜、集落に住む少年がその掟を破った。彼は友達との賭けに負け、罰ゲームとして夜の森へ入る羽目になったのだ。少年は気丈にも笑いものにならないよう、懐中電灯を手に持つと、薄暗い森の入り口へ向かった。見送る友達たちは、彼の背中が木々の間に消えるのを見届けた後、急いで家路についた。

少年が森に入ってすぐ、風が止んだ。普段なら虫の音や葉擦れの音が響くはずなのに、その夜は異様な静けさが広がっていた。彼は懐中電灯を振り回し、周囲を照らしながら進んだ。すると、どこからか低い声が聞こえてきた。「おいで…こっちだよ…」。少年は立ち止まり、耳を澄ませた。声は確かに聞こえたが、方向がわからない。風もないのに木の枝が揺れ、まるで何かが彼を誘うように動いているようだった。

恐怖を感じながらも、少年は賭けを投げ出すわけにはいかないと自分を奮い立たせ、さらに森の奥へ進んだ。すると、懐中電灯の光が何かを捉えた。木々の間に、白い影が立っていたのだ。人の形をしているが、顔はぼやけていて、まるで霧がそこだけ濃く漂っているようだった。少年の足はすくみ、声も出なかった。白い影はゆっくりと近づいてくる。「おいで…一緒に遊ぼう…」。その声は耳元で囁くように響き、少年の全身に鳥肌が立った。

少年は踵を返し、全力で走り出した。懐中電灯を落とし、暗闇の中をただひたすらに逃げた。背後からは足音が聞こえ、時折「待って…」という声が追いかけてくる。息が上がり、心臓が破裂しそうになりながらも、彼は集落の明かりが見える場所まで辿り着いた。振り返ると、森の縁に白い影が立っていた。遠くからでも、それがじっとこちらを見ているのがわかった。

翌朝、少年は高熱を出し、数日間うなされていた。目を覚ました時、彼は友達に森での出来事を話したが、誰も信じてくれなかった。懐中電灯は森の中で見つからず、ただ、彼の手にだけ奇妙な痣が残っていた。それは小さな手の形をしており、時折疼くのだという。それ以来、彼は二度と森に近づかなかった。

だが、話はそれで終わらなかった。少年が体験を語った後、集落の別の子供たちが似たような話をし始めたのだ。夜中に窓の外から「おいで」と呼ぶ声が聞こえる。カーテンを開けると、森の方向に白い影が揺れている。子供たちは怯え、親に訴えたが、大人たちは「気のせいだ」と取り合わない。だが、年寄りたちの表情は明らかに強張っていた。

ある晩、集落の外れに住む老女が、夜中に外へ出て行ったきり戻らなかった。翌朝、彼女の家の近くで履物だけが見つかり、足跡は森の方向へ続いていた。集落の人々は捜索に出たが、彼女の姿はどこにもなかった。ただ、森の奥深くで、かすかに笑い声のような音が聞こえたという者もいた。それ以降、集落では夜の外出がさらに厳しく禁じられるようになった。

それから数年が経ち、集落に新しい家族が引っ越してきた。彼らは古い慣習を知らず、ある夜、子供を連れて森の近くで散歩を楽しんでいた。翌日、その家族は忽然と姿を消した。家には生活の跡がそのまま残り、ただ、子供の描いた絵だけがテーブルの上に置かれていた。そこには、白い影と手をつなぐ子供の姿が描かれていた。

今でも、その集落では夜になると森から声が聞こえるという。風のない夜に窓を開ければ、遠くで「おいで…」と囁く声が響く。聞こえた者は決して外に出てはいけない。なぜなら、森の奥にはまだ何かいるからだ。そして、それは待っている。誰かが近づくのを、ずっと。

集落の人々は口を揃えて言う。「あれは昔、森で死んだ者の声だ」と。だが、真実は誰も知らない。ただ一つ確かなのは、声に呼ばれた者が戻ってきたためしがないということだ。

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