深夜の田んぼに響く声

怪談

それは私がまだ小学校に通っていた頃の話だ。田んぼに囲まれた小さな集落で、夜になるとカエルの鳴き声と風が稲を揺らす音だけが聞こえるような場所だった。私の家は集落の外れにあって、裏手にはずっと田んぼが広がっている。そこに、ぽつんと立っている小さな祠があった。

ある夏の夜、蒸し暑くて眠れなかった私は、窓を開けて外の風を入れようとした。時計はもうすぐ午前零時を回る頃だったと思う。すると、遠くの方から何か変な音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったけど、だんだんはっきりしてきて、それは人の声のようだった。

「オーイ……オーイ……」

低い、だみ声のような呼び声が、田んぼの向こうから響いてくる。こんな時間に誰かがいるはずもない。集落の人はみんな早寝早起きで、夜遅くまで起きているなんて考えられない。それに、声の響き方がおかしい。遠くにいるはずなのに、妙に近く感じるのだ。

私は怖くなって窓を閉めようとしたけど、好奇心が勝ってしまって、耳を澄ませてしまった。すると、その声が少しずつ近づいてくるのが分かった。田んぼのあぜ道を歩くような、かすかな足音まで聞こえてくる気がした。心臓がドキドキして、汗がにじんできた。

「お前か……お前か……」

声がそう言っているように聞こえた瞬間、私は慌てて窓を閉めてカーテンを引いた。部屋の電気をつけて、布団に潜り込んだ。母ちゃんに言おうかとも思ったけど、こんな時間に起こしたら怒られるだけだ。それに、こんな話をしたら笑いものになるかもしれない。

次の日、学校で友達にその話をすると、みんな目を丸くして聞いてくれた。けど、一番仲の良かった友達が、急に真顔になってこう言ったんだ。

「あの祠の近くで変な声がするって、おじいちゃんが昔話してた。昔、田んぼで働いてた人が行方不明になって、それから夜になると声が聞こえるって……」

その言葉を聞いて、背筋がゾッとした。友達のおじいちゃんは集落でも一番年上で、昔のことをよく知ってる人だった。まさかそんな話が本当にあるなんて。

その夜、私はまた窓の外に耳を澄ませてしまった。すると、やっぱり聞こえてきた。あの声が。

「オーイ……お前か……」

今度ははっきりと、家のすぐ裏の田んぼから聞こえてくる。私は怖くてたまらなくて、枕をかぶって耳を塞いだ。けど、声は頭の中に直接響いてくるみたいで、逃げられなかった。どれくらいそうしていたか分からないけど、朝になってやっと静かになった。

それから何日か経って、母ちゃんが近所の人と話してるのを聞いてしまった。

「最近、夜に変な声がするって噂になってるよ。あの祠の辺りでさ……」

母ちゃんは笑って「まさかねえ」と返してたけど、私は笑えなかった。だって、私にはその声が毎晩のように聞こえてたから。だんだん慣れてきて、怖さより気味悪さが強くなってきたけど、それでも夜になるのが嫌だった。

ある日、学校から帰ると、家の裏で近所のおじさんが田んぼの草取りをしてた。私は何気なく「おじさん、夜に変な声聞こえたりしない?」って聞いてみた。すると、おじさんは手を止めて、じっと私の顔を見た。

「お前、あの声聞いたのか?」

その言葉に、私は息を飲んだ。おじさんは続けて、ゆっくりと言った。

「昔な、祠の近くで若い男が田んぼに落ちて死んだんだよ。酒に酔ってたみたいで、誰も気づかなかった。それからずっと、自分の死に場所を探してるって話だ。声が聞こえたら、絶対に返事するなよ。連れてかれちまうからな」

私は言葉が出なくて、ただうなずくしかできなかった。その夜、また声が聞こえてきたけど、私は必死に無視した。けど、声は毎晩少しずつ大きくなって、家のすぐ近くで「お前か」と繰り返すようになった。

ある晩、とうとう我慢できなくなって、母ちゃんに全部話した。母ちゃんは最初驚いてたけど、「お前がそんな怖がるなんて珍しいね」と言いながら、近所のおばちゃんに相談に行った。次の日、おばちゃんが家に来て、祠にお供え物を持って行こうってことになった。

私と母ちゃんとおばちゃんの三人で、夕方近くに祠に行った。小さな石の祠には苔が生えてて、周りに草がぼうぼうに生えてた。おばちゃんが持ってきた米と塩を供えて、手を合わせて何かぶつぶつ唱えてた。私は怖くて目を閉じてたけど、その時、風が急に強くなって、背中が冷たくなった。

その夜、声は聞こえなかった。初めて静かな夜だった。次の日も、その次の日も、声は消えたままだった。おばちゃんが言うには、「あれで成仏したのかもしれないね」とのことだった。

でも、それで終わりじゃなかった。数日後、学校の帰りに友達と祠の近くを通った時、友達が急に立ち止まってこう言った。

「ねえ、今何か聞こえなかった?」

私は耳を澄ませたけど、何も聞こえなかった。友達は青い顔をして、「オーイって声がしたよ……」と震えながら言った。私は笑って「まさかだよ」と返したけど、心の中ではまたあの恐怖がよみがえってきてた。

それからしばらくして、私たち家族は集落を出て、町の方に引っ越した。母ちゃんは「仕事の都合だよ」としか言わなかったけど、私はあの声が関係してるんじゃないかって、今でも思う。あの祠は今もあるのか分からないけど、もし近くを通ることがあったら、絶対に夜には近づかないと決めている。

今でも、静かな夜に窓を開けると、遠くからあの声が聞こえてくるんじゃないかって、時々怖くなる。あの夏の記憶は、30年経った今でも、私の心の奥にこびりついて離れないんだ。

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