夜道に潜む妖怪の影

妖怪

それは今から30年ほど前、私がまだ20代の若者だった頃の話だ。

当時、私は東京都の郊外にある小さなアパートに住んでいた。仕事は都心の小さな印刷会社で、残業が続く日々だった。夜遅くに帰宅する事が多く、終電を逃した日は仕方なくタクシーを使ったり、時には歩いて帰ったりしていた。

その夜もまた、残業で終電を逃してしまった。時計はすでに深夜1時を回っていた。疲れ果てた体を引きずりながら、私は駅からアパートまでの約3キロの道のりを歩き始めた。普段ならタクシーを呼ぶところだが、その日は給料日前で財布の中身が心許なく、仕方なく自分の足を頼る事にした。

街灯がまばらにしかなく、住宅街の細い路地を抜けるその道は、昼間でも薄暗い雰囲気だった。夜になるとさらに不気味さを増し、風が木々を揺らす音や、遠くで鳴く野良猫の声が妙に大きく響いた。私は音楽でも聴こうかとイヤホンを取り出したが、電池が切れている事に気付き、ため息をついてそのまま歩き続けた。

道の半ばにある小さな橋を渡った時だった。橋の下を流れる川の水音がいつもより大きく感じられ、なぜか背筋に冷たいものが走った。辺りを見回しても誰もいない。ただ、暗闇の中で何かが動いたような気がして、私は立ち止まった。目を凝らすと、橋の欄干の向こう側に、ぼんやりとした人影のようなものが見えた。

「誰かいるのか?」

私は思わず声をかけたが、返事はない。人影は動かず、ただそこに佇んでいるように見えた。酔っ払いか、ホームレスかもしれないと思い直し、気味が悪いながらも歩き出そうとしたその瞬間、人影がスッと消えた。まるで霧が晴れるように、忽然と。

一瞬、自分の疲れが幻を見せたのかと思った。しかし、次の瞬間、背後からかすかな笑い声が聞こえてきた。低く、くぐもった、女とも男ともつかない不気味な声。私は振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、風が一瞬強く吹き、枯れ葉がカサカサと地面を這う音がしただけだった。

心臓がドクドクと鳴り始め、私は早足で歩き出した。笑い声が耳に残り、頭の中で反響する。家まであと少し、あと少しだと自分に言い聞かせながら、足を速めた。すると、今度は背後から足音が聞こえてきた。トン、トン、トン。誰かが私を追ってくるような、規則正しい音。私は恐る恐る振り返ったが、やはり誰もいない。足音は止まり、再び静寂が訪れた。

「疲れてるだけだ。幻聴だ」と自分を納得させようとしたが、体の震えは止まらなかった。そして、アパートが見えてきたその時、目の前の電柱の影から、ゆっくりと何かが這い出してきた。それは人ではなかった。背が低く、異様に長い腕を地面に擦りながら動く、得体の知れない影。顔は見えないが、頭部らしき部分がこちらを向いているのが分かった。

私は息を呑み、その場に凍りついた。影はゆっくりと近づいてくる。その動きは不自然で、まるで関節が逆についているかのようにぎこちなかった。距離が縮まるにつれ、かすかに腐臭のような臭いが鼻をついた。私は逃げようとしたが、足が動かない。恐怖で体が硬直してしまったのだ。

影が私の目の前まで来た時、初めてその顔が見えた。いや、顔とは呼べないものだった。目も鼻も口もない、真っ黒な平面。なのに、なぜかそこから感情が伝わってくるような気がした。憎しみ、怒り、そして何よりも深い悲しみ。その感情が私の頭の中に直接流れ込んできた瞬間、私は叫び声を上げていた。

次の瞬間、意識が途切れた。

目が覚めた時、私はアパートの玄関前に倒れていた。体中が冷や汗でびっしょりで、時計を見ると朝の5時を少し過ぎていた。辺りは静かで、朝日が昇り始めていた。私は急いで部屋に入り、ドアを施錠した。心臓はまだ激しく鳴り続けていたが、何とか落ち着こうと水を飲んだ。

それから数日間、私はあの道を通るのを避けた。会社には事情を話さず、早めに帰宅するようにした。しかし、あの夜の出来事が頭から離れず、夜になるとあの笑い声や足音が耳に蘇るようになった。ある日、近所に住む年配の女性にその話をすると、彼女は目を丸くしてこう言った。

「あの橋の辺りねえ…昔、そこで何かあったって噂は聞いてたよ。詳しくは知らないけど、妙なものを見たって人はあなたが初めてじゃないよ」

彼女の言葉に、私はさらに背筋が寒くなった。それからしばらくして、私はそのアパートを引き払い、都心に近い場所に引っ越した。もう二度とあの道には近づきたくなかった。

後日、古い文献を調べていた知人から聞いた話によると、あの橋の近くではかつて、理由もなく命を落とした人々がいたらしい。怨念が残り、妖怪となって彷徨っているという伝説もあるそうだ。私は今でも思う。あの夜、私を追い詰めたものは何だったのか。疲労による幻覚だったのか、それとも本当にこの世ならざるものだったのか。

答えは出ないまま、ただ一つだけ確かな事がある。あの恐怖は、私の人生に深く刻み込まれ、二度と忘れる事はないだろう。

タイトルとURLをコピーしました