鳥取県の山深い集落に、古びた家屋が点在する場所があった。そこに住む老人たちは、夜になると決まって窓を固く閉ざし、戸に錠をかけ、外に出ることを避けた。理由を尋ねても、彼らは目を逸らし、「聞かない方がいい」とだけ呟く。だが、ある夏の夜、好奇心に駆られた若者がその禁を破り、集落の外れにある森へと足を踏み入れた。
その若者は、都会から移り住んできたばかりの男だった。歳は二十代半ばで、静かな暮らしを求めてこの地にやってきた。集落の人々は彼を温かく迎え入れたが、同時に「夜の森には近づくな」と口を揃えて忠告した。最初は笑いものだと思っていた男だが、夜ごと聞こえてくる奇妙な音に、次第に興味が募っていった。それは遠くから響く、かすかな足音だった。土を踏む音とも、石を蹴る音ともつかない、不規則で不気味なリズム。最初は獣の仕業だろうと高を括っていたが、ある晩、その足音が家のすぐ裏手で止まった瞬間、彼の心に冷たいものが走った。
男は懐中電灯を手に、意を決して外へ出た。月明かりすら届かない森の入り口に立つと、足音はぴたりと止んだ。静寂が耳を圧迫する中、彼は一歩踏み出した。木々の間を縫うように進むと、どこからか湿った風が吹き抜け、背筋が凍るような感覚がした。懐中電灯の光が揺れるたび、影が異様な形に歪み、彼の心を不安で満たした。すると突然、背後で「カツン」と小さな石が転がる音がした。振り返った瞬間、光の輪の中に一瞬だけ映ったものがあった。黒い影のような、人とも獣ともつかぬ姿。だが、次の瞬間には消えていた。
息を呑みながら男はさらに奥へ進んだ。足音が再び聞こえ始めた。今度ははっきりと、近づいてくる。男の心臓は激しく鼓動し、汗が額を伝った。木々の間から見えるのは闇だけだったが、その闇が動いているような錯覚に襲われた。逃げようかと一瞬迷ったが、好奇心が恐怖を上回り、彼は懐中電灯を握り潰すほどの力で立ち尽くした。すると、足音が止まり、目の前の茂みが微かに揺れた。そこから現れたのは、ぼろぼろの服をまとった女だった。
女の顔は青白く、目は虚ろで、髪は乱れていた。彼女は無言で男を見つめ、その視線に男は言葉を失った。彼女の足元を見ると、裸足で血が滲んでいるようだった。「誰だ?」と男が声をかけると、女はかすかに首を振った。そして、震える声で一言だけ呟いた。「逃げて」。その瞬間、彼女の背後から再び足音が響き始めた。今度は複数だ。男は反射的に後ずさりしたが、女は動かず、ただじっと彼を見つめていた。足音が近づくにつれ、彼女の表情が歪み、恐怖と絶望が混じったものに変わった。
男は踵を返し、全力で走り出した。背後からは足音が追いかけてくる。木の枝が顔を切り、足がもつれそうになりながらも、彼は必死に集落へと戻った。家にたどり着き、ドアを閉めた瞬間、足音は家の周りをぐるりと回るように響いた。窓の外を見ると、闇の中にいくつもの影が蠢いているのが見えた。懐中電灯を手に持ったまま、男は息を殺して座り込んだ。足音はやがて遠ざかり、夜が再び静寂に包まれた。
翌朝、男は集落の老人たちに昨夜のことを話した。すると、一人の老人が重い口を開いた。「あれは昔、この地で死んだ者たちの魂だよ。森の奥に祀られた祠を守るために彷徨ってる。見つかったら最後、連れて行かれる」。男は半信半疑だったが、その日から夜の森には二度と近づかなかった。それでも、時折聞こえる足音に、彼は眠れぬ夜を過ごした。
数週間後、男は集落を出る決意をした。荷物をまとめ、車に乗り込む直前、最後に森の方を振り返った。すると、遠くの木々の間に、あの女が立っているのが見えた。彼女は無言でこちらを見つめ、そしてゆっくり手を振った。その瞬間、男の耳に再び足音が響き始めた。近づいてくる複数の足音。男は慌てて車を発進させ、集落を後にした。バックミラー越しに森を見ると、女の姿は消え、代わりにいくつもの影が車を追うように動いていた。
それから何年経っても、男はその夜のことを忘れられなかった。都会に戻った後も、夜になると時折あの足音が聞こえる気がして、目を覚ますことがあった。彼は誰にも話さなかったが、心の奥底で確信していた。あの森には、まだ何かいる。そして、それは自分を見逃してくれた女の警告を無視した代償として、いつまでも追いかけてくるのだと。
今でも鳥取県のその集落では、夜になると足音が聞こえるという。訪れる者は少ないが、もし森の奥へ足を踏み入れる者がいれば、彼らを待ち受けるのは、闇に響く足音の主なのかもしれない。