それは今から30年ほど前、大分県の山深い集落で起きた出来事だった。
その集落は、鬱蒼とした杉林に囲まれ、昼なお暗い場所だった。人家はわずか十数軒。住民たちは代々その土地を守り、細々と暮らしていた。子供たちは山を越えた町の学校へ通い、大人たちは田畑を耕すか、林業で生計を立てていた。外界との繋がりは薄く、時が止まったような静かな場所だった。
その年、秋が深まり始めた頃、異変が訪れた。最初に気づいたのは猟師の男だった。山で鹿を追っていた彼が、いつもの猟場で奇妙なものを見つけたのだ。地面に刻まれた、異様に大きな爪痕。幅は成人男性の手のひらほどもあり、深さは土をえぐるように抉れていた。獣の仕業にしては不自然で、まるで何かが怒り狂って地面を引っ掻いたような跡だった。
「熊じゃない。こんな爪痕は見たことがねえ」
男は仲間にそう報告したが、誰も真剣に取り合わなかった。山には昔から怪しい言い伝えがあったが、現代に生きる者にとって、それはただの迷信に過ぎなかった。しかし、その日から、集落に不穏な空気が漂い始めた。
数日後、猟師の男が忽然と姿を消した。朝早く山へ出かけたきり、戻ってこなかったのだ。仲間たちが捜索に出たが、彼の猟銃と血に濡れた帽子が崖の下で見つかっただけだった。遺体は見つからず、血痕は崖の縁で途切れていた。まるで何かに引きずり込まれたかのように。
集落に不安が広がる中、次に異変を訴えたのは年老いた女だった。彼女は夜中、家の裏手から奇妙な音を聞いたと話した。
「ガリガリ、ガリガリって、何かが壁を引っ掻く音がした。外を見たけど、何もいなかった。でも、朝になったら、家の木の壁に深い傷がついてたよ。あれは人間の仕業じゃない」
彼女の言葉を聞いて、集落の古老が口を開いた。
「昔、うちのじいさんが言ってたよ。この山には人が近づいちゃいけない場所があるって。そこに棲む『何か』が怒ると、爪で全てを切り裂くってさ。猟師がその場所に踏み込んだのかもしれん」
古老の話に、若者たちは笑いものだと鼻で笑ったが、年配者たちは顔を曇らせた。そして、その夜、再び怪事が起きた。
深夜、集落の端に住む一家の飼い犬がけたたましく吠え出した。主が様子を見に出ると、犬小屋の周りにあの爪痕が無数に残されていた。犬は鎖を引きちぎり、闇の中へ逃げ出したまま戻らなかった。それだけではない。翌朝、家の戸に血のような赤黒い染みがべっとりとついていた。拭いても落ちず、異臭を放っていた。
「山の怒りが目覚めたんだ。もうここにゃいられん」
そう言って、一家は荷物をまとめ、集落を去った。だが、彼らが去った後も怪奇現象は止まなかった。夜な夜な聞こえる爪で何かを引っ掻く音。家の周りに現れる不気味な爪痕。そして、消える人々。猟師の次は、子供を連れて山菜採りに出かけた母親が姿を消した。彼女の靴だけが、川沿いの岩に引っかかっていた。
集落の住民たちは恐怖に支配されていった。夜は灯りを消し、息を潜めて暮らすようになった。だが、それでも「それ」はやって来た。
ある嵐の夜、集落に残っていた数少ない若者の一人である男が、決死の覚悟で山へ向かった。彼は猟師の仲間で、親友だった男の仇を討つと息巻いていた。手に猟銃を握り、懐に短刀を忍ばせ、彼は暗闇に消えた。
翌朝、彼の叫び声が山に響き渡った。集落の者たちが恐る恐る山へ向かうと、そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。男の体は木々の間に引き裂かれ、血と肉が飛び散っていた。猟銃は折れ曲がり、短刀は血に染まったまま地面に突き刺さっていた。そして、その周囲にはあの爪痕が無数に刻まれていた。
「もう終わりだ。ここは呪われちまった」
生き残った住民たちは、次々と集落を捨てた。わずか数ヶ月のうちに、十数軒あった家々は無人となり、風と雨にさらされる廃墟と化した。だが、噂は消えなかった。山に近づいた者たちが「あの音」を聞いたと証言し、爪痕を見たと語った。中には、闇の中にうごめく巨大な影を見たと言う者さえいた。
それから数年後、廃墟となった集落を訪れた旅人がいた。彼は好奇心から、崩れかけた家屋の間を歩き回った。すると、一軒の家の壁に、異様に深い爪痕が残されているのに気づいた。まるで何かがそこに爪を立て、力を込めて引き裂いたような跡だった。
彼がその爪痕に手を触れた瞬間、背後で「ガリガリ」という音が響いた。振り返ると、そこには何もなかった。だが、音は止まず、徐々に近づいてくるようだった。恐怖に駆られた彼は逃げ出し、二度とその場所へは戻らなかった。
今でも、大分県のその山奥には、近づく者を拒むような空気が漂っているという。地元の者たちは「あそこは行っちゃいけない」と口を揃える。そして、風が木々を揺らす夜には、遠くから爪が何かを引っ掻く音が聞こえることがあるそうだ。誰もその正体を知らない。だが、一つだけ確かなことがある。それは、あの山に棲む「何か」が、今なおそこにいるということだ。
時折、登山客や猟師が行方不明になる事件が報じられる。そのたびに、古い住民たちは「あれだよ」と囁き合う。あの爪痕を残す存在。あの闇に潜む怪物。あの、決して怒らせてはならないもの。
そして今夜も、山の奥深くで、ガリガリという音が響いているのかもしれない。