凍てつく夜の足音

サスペンス

それは、冬の終わりを迎えたある日のことだった。

新潟県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む私は、いつものように薪を手に暖炉の前で体を温めていた。外は吹雪が荒れ狂い、窓ガラスを叩く風の音が不気味に響く。集落は人家もまばらで、隣家までは数百メートルも離れている。静寂と孤独が日常だった。

その夜、時計の針が11時を回った頃、遠くから奇妙な音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは規則的なリズムを刻み始めた。トン、トン、トン……まるで誰かが雪を踏みしめる足音のようだった。私は耳を澄ませたが、こんな時間に誰かが外を歩いているはずがない。この集落で夜遅くまで起きているのは私くらいだ。

不審に思いながらも、私は窓に近づき、外を覗いた。吹雪で視界はほとんど利かないが、ぼんやりとした街灯の明かりが雪原を照らしている。その光の中に、何か動く影が見えた気がした。人の形をしているようで、していないような……。目を凝らすと、それは一瞬にして消え、再び静寂が訪れた。私は見間違いだと自分を納得させ、暖炉のそばに戻った。

だが、それから数分後、再びあの足音が聞こえてきた。今度はさっきよりも近く、はっきりと。トン、トン、トン……。音は家の裏手の方から響いてくる。私は背筋が凍る思いで立ち上がり、そっと裏口の扉に近づいた。鍵はかかっているはずなのに、なぜか不安が募る。耳を扉に当てると、確かに外から足音が近づいてくるのが分かった。そして、突然、足音がぴたりと止まった。家のすぐ裏で。

息を殺して待つ私の耳に、次に聞こえてきたのはかすかな擦れる音だった。ザリ、ザリ……何かが雪を掻くような音。恐る恐る扉の隙間から外を覗くと、そこには誰もいなかった。ただ、雪の上に不自然な跡が残っている。人の足跡にしては細長く、爪のような引っかき傷が点々と続いていた。私は慌てて扉を離れ、リビングに戻った。心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が止まらない。

その夜は眠れなかった。朝になり、外を確認すると、あの奇妙な足跡は家の周りをぐるりと囲むように続いていた。まるで何かが私を観察していたかのように。そして、その日から奇妙な出来事が続くようになった。

数日後の夕方、私は近所の猟師から古い話を聞いた。彼は目を細め、こう語った。

「この辺りじゃ、昔から妙な噂がある。冬になると、山から何か得体の知れないものが下りてくるってな。足跡を残して人家の周りをうろつくんだが、姿を見た者はほとんどいない。見ちまったら最後、そいつは連れていかれるって話だよ」

私は笑いものだと思ったが、その言葉が頭から離れなかった。そしてその夜、再びあの足音が聞こえてきた。今度は家のすぐ近く、窓の外からだ。トン、トン、トン……。私は恐慌状態でカーテンを閉め、電気を消して布団に潜り込んだ。だが、足音は止まらず、徐々に近づいてくる。やがて、窓ガラスを叩く音がした。コン、コン、コン……。それはまるで私を呼んでいるようだった。

翌朝、窓の外を見ると、またあの細長い足跡が残っていた。だが今回は、それだけではなかった。窓ガラスに、誰かが指でなぞったような不気味な模様が描かれていた。円の中に歪んだ線が交錯する、意味不明の印。それはまるで呪いの印のように見えた。

それからというもの、私は毎夜のように足音に悩まされた。時には家の周りを歩き回る音だけでなく、屋根を這うような音や、壁を引っかくような音まで聞こえてきた。眠れない夜が続き、私は次第に衰弱していった。集落の人々に相談しても、「山の獣だろう」と笑われるだけ。だが、私には分かっていた。あれは獣なんかじゃない。

ある晩、ついに我慢の限界を迎えた私は、懐中電灯と猟銃を手に外へ出た。吹雪の中、あの足音が聞こえる方向へ向かった。足跡を追うと、それは森の奥へと続いている。恐怖で足が震えたが、もう引き返す気はなかった。森の中は闇に包まれ、木々が風で不気味に揺れている。足跡はどんどん細くなり、やがて一本の古い杉の木の前で途切れた。

その木の根元には、雪に埋もれた小さな祠があった。苔むした石の表面には、あの窓に描かれた印と同じ模様が彫られている。私は祠の前に立ち尽くし、懐中電灯で周囲を照らした。すると、背後からかすかな息遣いが聞こえてきた。ハァ、ハァ……。振り返る勇気はなかったが、背中に冷たい視線を感じた。次の瞬間、懐中電灯が突然消え、真っ暗闇に包まれた。

どれくらい時間が経ったのか分からない。私は気付けば自宅の床に倒れていた。全身が冷え切り、猟銃も懐中電灯もどこかへ消えていた。時計を見ると、夜中の3時。外は静まり返り、あの足音も聞こえない。私は這うようにして布団に潜り込み、震えながら朝を待った。

翌日、私は集落を出る決意をした。あの家に住み続けるのは無理だと悟ったからだ。荷物をまとめ、車に乗り込むと、最後に家の周りを見回した。すると、雪の上に新たな足跡が残っているのに気付いた。それは私の車に向かってまっすぐ伸び、運転席のドアの前で止まっていた。私は恐怖に駆られ、急いでエンジンをかけ、その場を後にした。

それから数年が経ち、私は別の町で暮らしている。だが、あの夜の出来事は今でも夢に見る。吹雪の中を響く足音、窓に刻まれた不気味な印、そして森の奥で感じたあの視線。あれが何だったのかは分からない。ただ一つ確かなのは、あの集落に近づくことは二度とないということだ。

最近、奇妙な噂を耳にした。私の去った後、あの集落で暮らしていた数少ない住人が次々と姿を消しているという。原因は不明だが、冬の夜に不思議な足跡が残されていたらしい。私はそれを聞いて、再び背筋が寒くなった。あれはまだそこにいる。そして、もしかしたら、私を追い続けているのかもしれない。

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