異界の囁きが響き合い

実話風

福岡の山奥にひっそりと佇む集落があった。そこは古びた木造家屋が寄り添うように並び、昼なお暗い森に囲まれている。集落に住む人々は穏やかで、訪れる者を温かく迎え入れる風習があった。しかし、ある夏の夜、私の身に起きた出来事は、その静かな日常を根底から覆すものだった。

友人と二人でドライブに出かけた私は、偶然その集落に迷い込んだ。ナビも携帯の電波も途切れ、薄暗い道を進むうちに一台の軽トラックが停まっているのが目に入った。運転席には誰もおらず、荷台には何かの布に包まれた大きな塊が載せられていた。不思議に思いながらも、私たちは車を降りて辺りを見回した。すると、どこからともなく低い唸り声のような音が聞こえてきた。風の音かとも思ったが、木々の葉は微動だにしていなかった。

「何か変だよ、ここ…」

友人が震える声で呟いた瞬間、背後でガサリと音がした。振り返ると、藪の中から何かがこちらを覗いているような気配がした。目を凝らすも、暗闇に溶け込む影しか見えない。私は急いで友人を車に押し戻し、エンジンをかけた。だが、車はうんともすんとも言わない。バッテリーが上がったのか、それとも別の力が働いているのか。パニックに陥る私たちの耳に、今度ははっきりと声が届いた。

「おいで…こっちへ…」

それは女とも男ともつかぬ、掠れた声だった。声の主を探そうと窓の外を見ると、軽トラックの荷台に載っていた布が風もないのにゆっくりと動き始めた。中から何かが這い出そうとしているように見えた。私は恐怖で息が詰まりそうになりながら、必死にドアをロックした。友人は震えながら携帯を握り潰さんばかりに手に持っていたが、画面は真っ暗なままだった。

その時、車の窓を叩く音が響いた。トントン、トントン。軽い音だったが、心臓が跳ね上がるほど不気味だった。恐る恐る目をやると、窓の外に白い手が浮かんでいた。指先は異様に長く、爪は黒ずんで鋭く尖っている。手はガラスを叩き続け、徐々に音が大きくなった。友人が叫び声を上げた瞬間、車全体が大きく揺れた。何かに持ち上げられたような感覚がした。

「逃げなきゃ…!」

私はドアを開け、友の手を引っ張って車外へ飛び出した。暗闇の中を走りながら、背後で何かが追ってくる気配を感じた。足音とも息遣いともつかない音が、すぐ後ろで響いている。必死に走り続けると、やっと集落の外れにある小さな祠が見えた。そこに逃げ込めば助かるかもしれないという一縷の望みを抱き、私たちは祠の扉を開けた。

中は狭く、埃っぽい空気が漂っていた。中央には古びた石像が置かれ、その周りに赤い紐が巻かれていた。私は息を整えながら友人と肩を寄せ合い、扉を固く閉めた。外からはまだあの不気味な音が聞こえてくる。だが、祠の中に入った途端、音が遠ざかったように感じた。安堵したのも束の間、石像の目がこちらを見ている気がして、私は凍りついた。よく見ると、石像の表面には無数の細かいひびが入っており、そこから黒い液体が滲み出ていた。

「ここも安全じゃない…!」

友人が泣きそうな声で叫んだ瞬間、祠の扉が激しく叩かれた。ドンドンドン! 今度は先ほどの手ではなく、何か巨大なものが扉を殴りつけるような音だった。私は恐怖で頭が真っ白になりながらも、友人を抱きしめてただ祈ることしかできなかった。どれほどの時間が経ったのか、叩く音はやがて止まり、静寂が訪れた。

恐る恐る扉を開けると、外は朝になっていた。車は元の場所に戻っており、軽トラックも消えていた。集落の家々からは煙が立ち上り、人々が普通に朝の支度をしている様子が見えた。あの夜の出来事が夢だったのかと思うほど、穏やかな光景が広がっていた。しかし、私の手には祠の中で握り潰した赤い紐が残されており、友人の首筋には黒い爪痕のような痣ができていた。

それから数日後、私は集落のことを調べようと図書館に足を運んだ。古い資料を漁るうちに、ある記述を見つけた。そこには、かつてその地域で異界と繋がる儀式が行われていたことが記されていた。儀式に使われた祠は封印され、決して近づいてはならないとされていた。私は背筋が凍る思いで資料を閉じ、二度とあの集落には近づかないと心に誓った。

だが、それ以降も私の耳には時折、あの掠れた声が聞こえてくることがある。「おいで…こっちへ…」。それは現実なのか、それとも私の心が作り出した幻聴なのか。友人はあの夜のことを口にしないが、彼の首の痣は消えることなく、今も黒々と残っている。異界の囁きは、私たちを完全に解放してはくれないのかもしれない。

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