それは、今から10年ほど前の夏のことだった。
私は愛媛県の小さな漁村に住む高校生だった。村は海に面していて、どこにいても潮の香りが漂ってくるような場所だ。夏休みになると、私はよく幼馴染のタカと一緒に、崖の下にある小さな入り江で釣りを楽しんでいた。そこは観光客もあまり来ない、静かな場所だった。
その日もいつものように、朝早くから入り江に向かった。空は少し曇っていて、海面は鏡のように静かだった。タカは「なんか変な感じがするな」と呟いたが、私は気にせず釣り糸を垂らした。すると、すぐに何かが引っかかった。重い。異様に重い。タカと二人で力を合わせて引き上げると、それは錆びついた金属の塊だった。形は歪で、まるで何かの機械の残骸のようだったが、海藻に絡まっていてよく分からない。
「なんじゃこりゃ?」タカが笑いながら言った。私はその表面に刻まれた奇妙な模様に目を奪われた。渦巻きのような、でも規則性がない、不気味な線だった。それを見ていると、頭の奥がざわつくような感覚がした。
その夜、私は妙な夢を見た。暗い海の底に沈んでいる自分がいて、遠くから低い唸り声のような音が聞こえてくる。目を開けると、部屋の窓から月明かりが差し込んでいたが、なぜか潮の香りが強烈に鼻をついた。枕元を見ると、あの金属の塊が置いてある。驚いて飛び起きた瞬間、それは消えていた。
翌日、タカにその話をすると、彼も同じような夢を見たと言った。「俺、あの金属に触った手がまだ変なんだよ。冷たい感じが取れねえ」と彼は顔をしかめた。私たちは気味が悪くなり、あの金属を海に捨てに行くことにした。
入り江に着くと、海は前日とは打って変わって荒れていた。波が岩にぶつかり、白い泡を立てている。私は金属を手に持つと、それを遠くへ投げ捨てた。すると、その瞬間、海面が一瞬だけ静まり、深いところから何か黒い影が動いた気がした。
それから数日後、村で奇妙なことが起こり始めた。漁師たちが「魚が獲れなくなった」と騒ぎ出し、海から上がってくる網には、見たこともない形の海藻や、半透明で蠢く何かしか絡まっていなかった。ある晩、村の古老が「海が怒っとる」と呟きながら、空を見上げていた。その視線の先には、いつもと違う星の配置があった。いや、星じゃない。あれは動いている。ゆっくりと、だが確実に近づいてくる光点だった。
私はタカと一緒に、あの金属のことを調べることにした。村の図書館で古い文献を漁っていると、ある記述を見つけた。数十年前、愛媛の沖合で「正体不明の漂流物」が発見され、引き揚げられた後、村で怪奇現象が続いたという。その漂流物は「深海から浮かび上がった異物」と記され、科学者たちが調査したものの正体は分からず、やがて海に返されたらしい。写真はなかったが、描写された形状は、私たちが拾ったものと酷似していた。
「これ、宇宙から来たんじゃねえか?」タカが冗談めかして言ったが、私は笑えなかった。なぜなら、その夜から異変が加速したからだ。
家の外から、夜な夜な低い振動音が聞こえるようになった。窓を開けると、海の方から響いてくる。それはまるで、何かが水面下で蠢いているような音だった。ある晩、堪えきれずに懐中電灯を持って外に出ると、浜辺に無数の小さな光が点滅していた。近づいてみると、それは小さな貝殻のようなものだったが、触れるとピクピクと動き、指にまとわりついてきた。私は悲鳴を上げて振り払ったが、その感触はいつまでも手に残った。
タカの家に電話をかけたが、誰も出ない。翌朝、彼の家を訪ねると、ドアが開けっ放しで、中は静まり返っていた。居間には、彼がいつも使っていた釣り竿が転がっていて、その先にはあの金属と同じ模様が刻まれた石が引っかかっていた。私は震える手でそれを持ち上げた瞬間、背後で水音がした。振り返ると、誰もいない。だが、床には濡れた足跡が続いていた。
それから、私は毎夜のように夢を見るようになった。海底に沈む自分と、遠くで光る無数の目。目覚めるたびに、部屋の中が潮の香りで満たされている。そしてある朝、鏡を見ると、私の首筋に渦巻き模様の痣ができていた。それは日を追うごとに広がり、皮膚の下で蠢いているように感じた。
村は次第に静かになっていった。人が減り、家々の灯りが消えていく。漁師たちは船を出さなくなり、古老は「海が我々を呼んどる」と言い残して姿を消した。私はタカを探し続けたが、彼の足跡は浜辺で途切れていた。その先には、あの金属と同じ模様が砂に刻まれていた。
ある夜、とうとう我慢できなくなった私は、入り江に向かった。月明かりの下、海は異様なほど静かで、黒い鏡のようだった。すると、水面が揺れ、ゆっくりと何かが浮かび上がってきた。それは巨大な、歪んだ形をした構造物だった。錆びた金属と有機的な何かでできた、理解不能な物体。表面にはあの渦巻き模様が無数に刻まれ、脈打つように光っていた。
その時、頭の中で声が響いた。言葉ではない。ただ、圧倒的な「何か」が私を呼んでいる。私は足が勝手に動き、海へと近づいていく。冷たい水が足を包み、膝を浸し、胸に達した瞬間、全身が震えた。そして、気づけば私は海底にいた。
そこは暗く、果てしない空間だった。遠くで光る目が私を見つめている。無数の影が蠢き、私に近づいてくる。その中には、タカの姿もあった。彼は私を見て、ゆっくりと口を開いたが、声は出ない。ただ、黒い液体が溢れ出し、私の方へ漂ってきた。
目が覚めると、私は自分の部屋にいた。全身が濡れていて、ベッドには海藻が絡まっていた。首の痣はさらに広がり、腕にまで達している。私は鏡を見ることができなくなった。なぜなら、反射する自分の目が、すでに人間のものではなくなっている気がしたからだ。
今でも、夜になるとあの振動音が聞こえる。窓の外を見ると、海が光っている。そして、私は思う。あの金属は、私たちを海に引き込むための「鍵」だったのではないか。深海から浮かび上がった何かは、私たちを待っている。そして、それはもうすぐここにくる。